無量寿経 第11回/人生の目的が分かったぞ!

人生の目的が分かったぞ!

法話ライブ at 京都道場  2017年1月14日
法話:遠藤喨及
動画:


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=eiUTrJJXjp8

1)フィールドを智慧の光明や大愛で満たすことができる

人生、念仏、タオ指圧、全ての目的は同じです。
それがわかると、どのように念佛したらよいかがわかります。
そしてその方法にしたがって行じると、あっという間にものすごい効果が得られます。

それがどんな方法なのか? また目的とは何なのか?
それについてお話しする前に、まず明確にすべきことがあります。

それは通常、自分という存在があって、そして自分が見ている世界がある、というふうに、主観と客観を分けて考える。
実は、これは根本的な間違いなんです。
そもそも、「見ている世界が自分だ」ということを、前提にしないとならないのです。

人によって、見ている世界をどう感じるかは違います。
世界は、人生は大変なところだ、とか、怖いところだ、とか。
あるいは、何が起こるかわからない。一寸先は闇だとか、
不安や恐怖のイメージで見ている人が多いのです。

片や、ワクワクするとか、未来は明るいぜ、とかいろいろなイメージがありす。

そして世界を外界として見ている。
その中の一部として存在している自分は、外界に対して全く力を持たない、
と、そう思っている人が多いのです。
そして、“外に翻弄されているかわいそうな私”を演じ、自分は受け身的な存在で、外界の犠牲者とみなします

見ている世界、外界を「フィールド」と表現しますが、フィールドはいくらでも智慧の光明や大愛で満たすことができるのです。

2)法は自分の心のなかにある。サンガも自分の心の中にあるのです

「フィールドを満たす」ことで、体感を一変させることが実際にできる。
タオサンガではそれを体験する。
自分自身が体感し、人にも体感させることができるのです。

智慧光の体感では、全身の細胞がジンジンして気持ちがいい状態になります。
そのとき世界に対しては明るい光を感じるのです。

智慧の光で、フィールド(世界)を満たすのが中念佛の目的です。

三宝を受持すると如来様がカルマを背負ってくださる。
そこに智慧の光明が入ってきてます。

さらに、カルマと智慧光がお互いに感応同交する。
カルマが智慧に転換していくというプロセスが起こるのです。

それを相手や世界に対して回向(振り向ける)するのです。
すると、周りの人もそういう明るさ、光を体験します。
そして自分自身は透明になり、カルマに引っかからない感覚になります。

昔の8ミリフィルムは、ホコリがついていると映像に映りました。
このように心に引っかかりがある状態を「碍」と言います。

碍があると、「あの人、また私の事を…」とか勝手に妄想して怒っちゃう。
でも、自分が透明だったらそ、んなことにはなりませんよね。

フィールド(世界)が自分だということを、まずはっきりと決めなければダメですね。

世界が自分自身だからこそ、世界に責任を持てる。
愛とは、受持とは、責任をもつことですからね。

法は自分の心のなかにある。
サンガも自分の心の中にあるのです。
だから憶念の行も、讃嘆の行も、决定の行も全部自分のなかにある世界に対してなんです。

3)これほどワクワクする世界はありません

三宝受持すれば、如来様の智慧光が入ってきて、透明な光に満たされていきます。
生きてても死んでいても、見ている世界が浄土的な光になっていきます。

智慧の光明、あるいは憶念の念仏行によって、大愛と清浄光で世界を満たします。
清浄光は芸術の源泉です。

陽念仏においては、無限の歓喜と潜在力の発現があります。
これほどワクワクする世界はありません。

融念仏では、絶対の自由と、あらゆる願いを実現することで世界を満たしていくのです。

フィールド(世界)こそが自分だから、自分も人も無いのです。

誰かに願いがあることを知れば、”それがなんとか叶うように”、と祈るように思うし、また励ますしたり、そのためのお手伝いもする。

他者に対しては、潜在的な能力や可能性だけを見ています。
だから、讃嘆の気持ちになるし、他者の喜びを自分の喜びとしても感じます。
相手の幸せを願う気持ちが出てくるのです。

他者は自分の心の中の存在ですから、他者を気遣うし、幸せを願う。
また、暖かい気持ちになります。

そして相手の碍(心の引っかかり)は消えて欲しいと思う。
だから、智慧をもって相手の我が転換するための直面的なことも言います。

4)人生の目的は、フィールドを四つの霊的な内容で満たしていくこと

他者は外の存在ということにしたら、自分とは関係ない、と思ってしまいます。
場に責任を持たない、というのはそういう状態なんです。

人がいる場は自分のフィールドなのに、押し黙る。
場の空気が暗かろうが、白けようが、人が嫌な気分になろうが、自分には責任がない、というように思ってしまう。

人生の目的は、フィールドを念仏で行う四つの霊的な内容で満たしていくことなんです。

念佛の目的は、道場と世界、また自分が認識していない世界を含めて、四つの霊的内容(智慧、大愛、随喜、本願)で満たしていくことです。

コミュニケーションもそうなんです。
それが人生の目的だし、念佛の目的だし、タオ指圧の目的です。

やがては一念の念仏のなかに受持、智慧光の体感などの全てが含まれるようになって行きます。

それが、無意識になっていったら、人生全てにおいて一変します。

5)如来様が讃嘆してくださる

ここで無量寿経の後半の好きな所を挙げますね。

「法を聞いて、よく忘れず、
(無量寿仏に)見(まみ)え敬い、大いなる慶びを得る人は、
我が善き親友なり。」

如来様は、修行者を「我が子」でなく「親友(しんぬ)」と呼ばれているのです。
なぜか?

それは、如来様が私たちを讃嘆してくださるからです
私たちを下に見ること無く、大事な親友である、と。

如来様になり代わって人々を受持し、憶念し、賛嘆し、願いをかなえていくならば、
そういった念仏者ならば、それは如来様の「親友」だ、と。

それが故に、このような想いを起こしなさい。

「この故に、まさに意(菩提心)を発(おこ)すべし。」

たとえ世界が火に包まれようとも、どんなにカルマに邪魔されようとも、世界を智慧、大愛、随喜、本願で満たしていきましょう、と。

「*たとい、世界に火の満てらんとも、必ず過ごして、要(もと)めて法を聞けば、
会(かなら)ず、まさに仏道を成じて、広く生死の流れを済わん。」

6)「私、関係ないよ」という心境ほど寂しいものはない

「人に責任を持つ」受持は、我が嫌がることでしょうね。
「我」(エゴ)は、自分と世界を「私、関係ないよ」と分けますから。

でもね、イメージしてみればわかると思いますが、「私、関係ないよ」ほど寂しい心境はないんですよ。その果ては、孤立しかないですから。

「徳は弧ならず」という言葉があります
徳のある人は孤独になることはない、という意味です。

人の幸せに責任をもつような人だったら、すごい徳がある。
それだったら周りがほっておかない、ということです。

周りがケアするということではないんです。
そういう人同士が繋がるということです。

一方が責任を持って、その一方が「私は関係ないよ。でも、あんたなんとかしてよ」というのは餓鬼の世界です。餓鬼では、何人一緒にいても孤独ですよ

餓鬼の関係性は、一時期は成立しても長くは続きません。
だって「何とかして」という人同士では、結局最後までは結びついていないでしょうから。そうすると孤独になるしか無い。

人間、徳があるほど孤独ではなくなってくるのです。
それは当然ですよね。

そして我が強いほど孤独になる。
また我が少ないということは、要するに利他が増えるということです。

8)カルマと仏性は表裏一体だから

エネルギーが自己愛に向かわないならば、他者愛に向かうのです。
自己愛か他者愛どちらかしかない、そこが存在の面白いところです。

カルマか智慧か、しか無い。
法に対しては、利用するか献身するか、しかない。

これらは、カルマと仏性が表裏一体だからです。

法との関わりにおいて、利用はしていない、献身もしていないというのは無い。

人間界は相対的で表裏一体ですから、どちらかしかないんです。
「私は利用はしていないけど、、、」というのは幻想で、ある意味ごまかしです。

これは、氣で体験してわかると思います。
たとえば、切心が無いという状態は、単に共感がないだけではありません。

人を世間的に品定めする、傷つける状態になのです。
だから切心のない人に、見られるだけで辛いのです。

その典型は、世間に従って生きている、ザーマス夫人です。
冷たいんですね。

犯罪を犯す人は、そういう人たちのカルマを背負って犯罪をしてしまうのかもしれません。

9)怠けと傲慢

「驕慢と蔽と懈怠は もってこの法を信じ難し」

「驕慢」は、自分は偉い、と思っている状態。
「弊」というのは、世間の習慣が絶対だ、と思うことです。

そして「懈怠」というのは怠ける、という意味です。
これは精進しない、自分をぶち壊して新たな世界に行こうとしないこと。

上の3つを同じものとしていますね。

例えば”私は怠け者だから、、、”という人がいます。
本人は気がついていませんが、これ、すごい傲慢なんですよ。

何のために命があるのか? 何のために人生があるのか?
それを考えたら、時間は無駄にできないんですよ。

自分の人生を勝手に無駄にしてもいいと思う。
それはフィールド(世界)が自分だと思っていないからです。

フィールド(世界)が自分だったら、その中のことをほっとけないはずです。

場に責任を持たないでいる状態を、自分では「怠け」と思っているかもしれません。
でもこれ、実は傲慢だということなんですよ。

”今まで責任を持たなかったから、このまま続けてもいい”というのは、「弊」であって、これも傲慢なんです。

3つを同じものとしているところが、佛教の凄いところですね。

10)身をもって、人々のフィールドを光で満たしなさい

「法を信じることが難しい」とありますが、
”法を信じる”ということは”法に生きる”というです。

”信じているけど、それには生きません”というのは、ありえないでしょう。

「遊入深法門」

法門のなかに、「遊」で深く入る。
佛教には、この「遊ぶ」という字がよくでてきます。
既成概念が一切ない深い門に、まるで遊ぶように入る。

「門」は文字でも教えでもなく、日常の中の三昧。
如来様と一体化した世界です。

「口より無数の光を出して、遍く十方の国を照らす。」

誰かを気遣って言葉で褒めて、その人が癒やされたり喜びに満ち足りたら、それは”口から光を出した”ということでしょうね。

「光を迴らして身を囲遶(いにょう、周回)し、三匝して頂より入れば、 一切の天人の衆は、踊躍して、皆、歓喜す。」

”身をもって、人々のフィールドを光で満たしなさい”ということです。

そうすれば、人間界を守護している天人方も喜びます。
それで「歓喜勇躍する」という言葉がでてくるのです。

11)我々がやっていることは、全てお経の中に出てくる

お分かりのように、我々がやっていることは、全てお経の中に出てきます。
やがて、”ああ、こういう意味だったんだな”と分かってきます。

経典の言葉を、少しでもピックアップして見ていただいたら、自分のやっていることへの理解が深まると思います。

これらは、2000年前から、菩薩様方が修行されてきた。
そして、そういう世界を体験して生きてこられ、経典に言葉を残されたのです。

龍樹菩薩が書かれた、と噂されている無量寿経ですが、「これらの教えは、お釈迦様に聞きました」としかありません。この謙虚さが、また素晴らしいですね。

(合掌)