必ず悟れる!

必ず悟れる!
法話ライブ at 京都道場  2016年6月25日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=zqJ9yqrID1g

(1)
これ、言わないまま、僕もいつ何どき、どこで行方不明になるかわからないので、言えるときに言っておきますね。というのは、「必ず悟れる」という念佛メソッドがだんだんはっきりしてきたんです。

ただ、みんなで念佛している際に、「自分はその中の一人、つまりOne of themという意識でやっていたら、そもそも修行が成り立ちません。

多数の中の一人、という意識を持った時点で、すでに他の人を対象化しています。
その意識から悟りの道は拓かれないからです。

悟りの道は、「わが責任において祈願を全うする」というところで、はじめて拓かれていくものなのです。

2)

これは「自分の人生を最大限に活かす。最大限に意義のあるものとして全うする」というのと、同じ精神的次元のことです。

「自分は世界の中の一人、One of them」という発想になってしまうと、人生を最大限に活かす、最高に潜在力を発揮するということにはならないんです。

佛教の基本的な哲学の一つは、「一つの中に宇宙一切が含まれる」。
これを一即一切と言います。

自分は(あなたは)、全宇宙を代表してここにいるのです。
外界はないのです。

自分が認識している世界そのものが自分なのです。

認識がなければ世界が無いのです。
これは最近の量子力学の世界観と同じですね。

「自分とは別に外界がある。自分はその中の一人だ」
そのような世界観を持っていると、外界に対して自分は受け身になります。

人が人生で受け身になった時、心は未来に向かないのです。
なぜか、過去を前提にする意識になるのです。

過去を前提として想う未来と、過去を白紙にして未来そのものを見るのとでは、人生の風景が全く違います。

過去を前提として未来を想っても、「どうせ今までうまくいかなかったから、未来もこうなんだ」という、無意識に染み付いたパターンが前提になって未来を見てしまいます。だから、だいたいあまり未来のイメージは明るくないわけです。

3)
子供の頃に満たされて生きてきた人はいません。
多かれ少なかれ無力感、孤独、疎外感、無価値感を味わって育っています。

その体験を前提として思う未来というのは、「私は大したことない存在だから、どうせ幸せになれない」というようなものが無意識にあります。
それでどうして明るい未来が築けるでしょうか?

そうではなく、自分の中に一切があるのです。

自分の責任として、自分が未来を決めることによって、人生の一切が変わっていきます。

宇宙の構造上、「応念即現」(おうねん・そくげん)と言って、念に応じて世界は変わるからです。

4)

これを前提とするならば、「私は愛されてこなかったから、、、」とか、
今までの人生の話は、自分の未来には関係ないので言わなくなります。

「今からどうするんですか? あなたはどう生きたいのですか? どういう人生を創っていきたいんですか?」という、これからの話になります。

「人生を創っていく」と言っても、人間の世界には終わりが必ずあります。
だから、人生の終わりのあとが暗いイメージなのか、明るいイメージなのかによって、やはり未来そのものに対するイメージも、ガラッと変わります。

人生が終わったあとはどうなるのか? ということを追求しない人は、だいたいものを深く考えません。だから人生を最大限に活かそう、という発想にはなりません。外界に対して受け身になります。

しかも外界というのは、自分が自分のカルマを投映して認識している世界なので、自分のカルマに対して受け身になって、流されて人生が過ぎていく、ということです。

本当は人生は、カルマから自由になって、どこまででも高められるものなので、非常にもったいない話だな、と思います。

5)

念佛や佛教の修行においては、「自分は多数の中の一人、One of them」という考えは持つべきではありません。

お釈迦様は「犀の角のようにただ一人歩め」ということを常に言われ続けました。

自分が世界を創っているのです。
だから、念佛においても、「わが責任において、一切の生きとし生けるものの救い、一切のカルマを解放し、一切の願いを成就し、一切の向上のために行じる」のです。

サンガと自分の関係においても、「自分は大勢の中の一人だ」という心を持つべきではありません。

「大勢の中の一人(One of them)」になったら、その心は受け身であり、自分は当事者でなくなります。

サンガが自分の外にあると思っていると、自分は部外者。
部外者だと、何か問題を感じた場合、「なんでサンガはこうなんですか?」というような言葉が出て来ることになります。

逆に、わが内にサンガがあったら、何か問題があれば、自分がなんとかするのが当たり前となります。

だって、わが内にあるもの、たとえば自分の性格を「なんでこうなんですか!?」なんて批判してもしょうがないじゃないですか。自分の部屋が汚いのを、「何でこうなんですか!?」なんて批判する人なんかいないでしょう?

人生すべからく、人に頼らず、自分の責任として行うのです。
サンガに対して世界に対して部外者的に批判するのではなく、むしろ逆に「こんな状態で申し訳ない」と思って、自分がなんとかする。

それが、心意気ってもんでしょう。
だから、わが責任においてやった場合において、初めて修行が成り立つのです。

みんなで一緒に、という幻想を持っていては修行は成り立ちません。
集団幻想を持つと、そこには目覚めがなく、悟りの門は開かれないのです。

中念佛のメソッドでは、「私(独り)が、責任を持って、この世界の諸々の苦しみ、カルマを光と化すんだ」という、そんな想いで行うのです。

6)

昔、16歳ぐらいの頃、ヒッチハイクをしていた時に、山伏の修行をしているトラックの運転手に乗せてもらったことがあります。

そのおじさんが言うには、山奥の廃寺のようなところに夜中に行くと、たまに本物の化物がいて、全身汗びっしょりになってお経を唱えることがあるそうです。

で、二十歳くらいのときなんですが、突然山の中で修行しようと思い立って、木魚を持って秩父の山奥に行きました。そして、誰もいなさそうな寺にテントを張って念佛していました。

すると、突然おばちゃんが出てきて、僕を寺にいれてお茶を飲ませてくれ、話をしているうちに、一瞬だけすごい怖い顔になった。それで、また修行に戻りました。

しばらくすると、おばちゃんが何か叫びながら薙刀か何かを振るっているのが見えました。すると僕は、山伏の化け物の話を思い出し、急に怖くなって慌ててテントを持って逃げたことがあります。(笑)

7)

さて、念佛の話に戻しますと、念仏を行うのに必要な四種類の心があって、それらは氣として認識できます。

また修行の成就に必要な、イメージで見える4種類の氣の形があって、それも分かるようになります。

例えば、金剛心という心のなかに、パチンコ球くらいの硬い剛玉という「氣」があります。

そこに如来様の鼻相のイメージを迎えるようにします。
同時に、わが責任として、一切のカルマや魔が光と化すようにと祈願していきます。

これをひたすらやっていると、氣のからだと紫金色の円光相、つまり仏様の背後の光が他力的に一体化していくのです。

これをただひたすら、心を集中してやっていくと、やがて日常的にこれが自然に起こってきて、三昧の状態に入っていきます。すると心が自由になる力がついてきます。

中念佛の目的は、心が自由になる力をつけることなんです。
なぜかというと、人間の心は何によって不自由になるかというと、カルマや魔によってなんです。

「想いが変えられない」とか、「行動が変えられない」とか。これらはカルマという習慣的な無意識パターンによるのです。これらを変えられたら、人生これほど自由なことは無いのです。

8)

陰念仏においては、諸々の霊の救済を祈願します。
これによって「幸福力」がつきます。

実は、どこまで如来様の大愛を受けているかが、イコール私たちの幸福力なんです。
大愛の功徳。これを頂くということ。
それは、大愛が湧き出してきて自然に広がっていくということです。

大愛の功徳とは、ただ自分がもらうのではではなく、湧き出してきて自然に宇宙一切と分かち合われるものなんです。

自由力にしても、自分の中から湧き出して来る。
そして自分も自由になり、人も自由にしていくというものです。

陽念佛においては、「創造力」が開発されていきます。
これは「未来力」です。
だから、“もう楽しくてしょうがない”とかで、存在の根源である「歓喜」が湧いて来るのです。楽しさが湧いてきたら人生勝ちなんですよ。

陰念仏による大愛力によって、相手に大愛を感じさせられるようになります。
湧いてくるのです。そして、相手の痛みを引き受けられる受容力がついて来るのです。

陽念佛の修行によって、相手の楽しさを刺激することができるようになります。
自分が楽しいのと同時に、人の楽しさを刺激して一緒に楽しめる。
そういうものです。

楽しめれば、自然に潜在力は開発されていきます。
これはまさに「子供力」です。

だから僕は、子供は徹底的に楽しませなければダメだと思います。
人は楽しむほど、存在の根底が歓喜だと、無意識に分かります。

そして楽しむほど、創造力が湧いてきます。
だから遊びはすごく大事なんです。
(チャトランガGAMEもね)

9)

大人になるにつれて、本当の遊びをしなくなりますね。
利害がからむ博打をやったりとか。

博打でも、「エデンの東」のチキンレースみたいに、命を賭けるものがありますけど、、、。

ところでティーンエイジャーは、なぜそういうことをするのでしょうか。
思春期で、肉体が変わるときは、それまでの自分が死ぬからです。

一種の死なんですよ。
だから、その頃って、すごく死を考える時期なのです。

我々も死を意識することで、ティーンエイジャーのままの感じで人生行けるはずなんです。そうしたら一生青春でいけるますね。

これが一番創造力がでる生き方ですね。
なんせ人間、守りに入ったらお終いですから。

創造力は、楽しさを追求するほど出るんです。

10)

人間、最も楽しさや生きがいを感じるのは、みんなで力を合わせて何かを達成していくときなんです。

でもこれって、一方では「修行は一人でなければならない」と言いながらですから、ある意味、決定的な矛盾でしょう。皆で力を合わせるときが一番楽しい、と言うのは。

この矛盾の中を生きるのですよ。
この綱渡りの中で、常にどちらにでもいける自由性がないとならないんです。

「修行は一人でやるものです」と硬いことは言わないで、楽しむときは楽しむ。

でも一方では、「みんなで…」みたいな、集団の不自由な雰囲気なんかからのしばりからは、完全に自由でなければなりません。

11)

融念佛の修行では「願成就力」がつきます。
これは自己実現力と言ってもいいです

みんなが抱いている願いは、自分の心の中に種として入っているはずです。
融念佛中においては、それを成就することをわが責任として祈願するのです。

この修行は、氣コミュニケーションのトレーニングでも発揮されます。
たとえば、相手の人が願いを語った時に、「それが成就するためには、自分はどんなことでもする。もし成就しなかったら、自分が責任をもつ」くらいの気持ちで返事をします。「必ずそれは成就します」、と。

そうすると、相手の心の無意識層のなかに、成就の種、未来の種が植わるのです。
サンガではそういう氣コミュニケーションをするのです。

だから融念佛中は、みんなの願いの種をわが心に引き受けて、わが責任として成就するように祈願していきます。

この「みんな」というのは、念佛道場に参加している「みんな」もあるし、世界の一切の願いも、宇宙一切の生きとし生けるものの願いもあります。願成就の祈願というのは、そういった壮大な話なんですよ。

自分が大勢の中のちっぽけな一人というのではなく、自分が一切の願いを背負うのです。

本当は一人ひとりの心のなかに、一切の人が入っています。
入っていないと思うかもしれませんが、宇宙はそういう構造になっています。

目に見える世界、眼に見えない世界を含めて、一切が自分の中に入っている。
それが自分なんです。

だったら、それらの一切の願いをわが責任として成就させるように祈願回向(えこう)するのが当たり前じゃないですか。(注:回向とは仏さまのエネルギーを、自分が祈願する対象に振り向けること)

12)

それでこそ、自分の人生を100%全うする、
最高に輝ける命として自分は生きる。
皆さん、実はそのために生まれてきたのですよ。

宇宙一切の因縁を頂いて生まれてきたのです。
そして、この瞬間に指を動かしただけでも宇宙一切は動くのです。
何かを思っただけでも、「一念三千」で、宇宙三千世界は変化するのです。

宇宙一切の事々物々の因縁の結果として、自分の一つの動きが起きている。
と同時に、自分の動きは、一切に影響します。

一切が一切に影響しているのです。
しかし、自分と切り離した「他」は、存在しないのです。

自分が認識している世界は、まさに自分なんです。
だから本当は、他人事は一切ないのです。

その気持になって修行するから、自由力がついてカルマが光化していくし、
幸福力、潜在力、願成就力もついていくのです。

さらに日常的に、自分の心のなかがそういう状態になって拓けてきます。
、、、そこが一番ありがたい。

修行している時だけでなく、日常の心の状態が、三昧という悟りの状態に変わってきます。、、、しかもそれを、悟りとしては認識しないのです。

それは如来様からいただいたものであって、自分としては、自分が悟っていない部分しか認識しないのです。

13)

すごいありがたい気持になる。それで賛嘆します。
しかしそれは、如来様に対する賛嘆、法に対する讃嘆であって、自分への賛嘆なんかではありません。

喜びがあって讃嘆しますが、法とか、如来様を讃嘆する喜びなんです。

また、どんどん軽くなって自由になって、幸福力、創造力が湧いてきて、どこまでも素晴らしい世界を創っていける。

そして、自他共にあらゆる願いを叶えていく。
そういう修行の場にサンガがなっていく、と信じています。

またそうなるためにも、「自分がサンガの中の一人だ」という考えは止めて、
「自分自身の内にあるサンガ、自分自身の内にある法」という見地でやっていかなければなりません。

それ以外のものは幻想だと認識するのです。

そして、自分の生き方を間違えないためには、言ったことを言葉通り必ずやるのです。

「身口意」(しん・く・い)」、すなわち言葉と行動と想い。
この3つを一致させるのは、仏教では最も基本的なことです。

思ってもいないことを言ったりしない。
言ったらそのまま行動する。

われわれは法に従って念佛修行しています。
そして念佛は、「南無阿弥陀仏」という名号(文言=言葉)を唱えることが基本的な修行です。

だから、言葉が信じられなくなったら、そもそも行が成り立ちません。
また、「はじめに言葉ありき。言葉は神であった」という聖書の言葉があるように、
ありとあらゆる教えが、そもそもそうなんです。

今やタオサンガの決定的なターニングポイントです。
指圧と念佛が一体化し、念佛修行をしている人にタオ指圧の修行を勧めるという内容にすらなってきましたからね。
(合掌)


「氣の幸福力」遠藤喨及著(法蔵館)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%97%E3%81%AE%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E5%8A%9B%E2%80%95%E6%B0%97%E5%BF%83%E9%81%93%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%82%AA%E6%8C%87%E5%9C%A7-%E9%81%A0%E8%97%A4-%E5%96%A8%E5%8F%8A/dp/4831864242/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1467425226&sr=8-1&keywords=%E6%B0%97%E3%81%AE%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E5%8A%9B