般若心経(色即空)/人生を輝かす空の世界

人生を輝かす空の世界
法話ライブ at 京都道場  2016年5月14日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://youtu.be/6Fc_qRxRCfk

1)

般若心経とは、何を語ったお経でしょうか?
観自在菩薩…とありますから、観音様のお悟りの心について語ったものです。

なぜ、観音様なのでしょうか?
これはあまり知られていないかもしれませんが、
観音様は阿弥陀様の分身(ふんじん)、つまり分霊です。

慈悲の心を体現しているのが観音様で、般若心経は、慈悲から生まれた悟りの内容を説いているのです。

観音様のご木像の第三の目のところに、小さい仏様が彫られています。
実はこれ、阿弥陀様なんです。「観音様は常に阿弥陀様を念じて、それによって悟りを開かれている」ということを示しているのです。

念仏と般若心経とは別というイメージが有りますが、実際には、表裏一体の関係なんですね。

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2)

我々は「観音様」と聞くと、どうしても外なる存在として考えがちです。
しかし本当は、“我が内なる観音様”として捉えなくてはなりません。

般若心経のストーリーとは、我が内に在す観音様を通して、どのように阿弥陀様の心を人生に体現するか、ということです。

内なる観音様の心をわが身で体現できたら、人生は自由自在になるからです。

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3)
これすごいパラドックスなんですが、「宗教と大霊(神仏)」って矛盾がつきまとうんですね。
例えばお釈迦様もイエス様も法然上人も、宗教を作った人ではないんです。
それどころか、既存の宗教をぶっ壊した人なんですよ。
大霊を体験したら、自分の中で既存の教義は壊れるからです。
宗教は元来、そういうパラドックスを抱えているんですが、気づかない人が多いですね。

大霊は無限向上が基本ですから、真の宗教家は固定された教義の中に納まるわけがないんです。
だけど、人の我は宗教を教義として固定したがりますね。

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4)

宗教から大霊が消えてしまい、残るのは抜け殻だけということになると、
抜け殻になった宗教は、ある意図を持って改竄されていきます。

キリスト教の改竄(かいざん)は分かりやすいですね。
聖書から、輪廻転生を説いた部分を削除したりとか、その後、様々な改竄が行われました。そして邪(よこしま)なものが入っていってしまいました。

意図を持って改竄された宗教は、非常にネガティブな作用をします。
だからキリスト教では、魔女狩りが起こり、ユダヤ人迫害が起こり、十字軍遠征で残虐の限りを尽くしたのです。

そもそもキリスト教がヨーロッパで国教化していくとき、土着の宗教を全部破壊しました。

実はこれ、自分たちの精神的支柱を破壊したということですから、ヨーロッパ人は霊的に非常に傷を負っているんですね。

さらに、改竄されたキリスト教を強制したのですから、人間の精神にとってものすごいネガティブなことが起こったわけです。

宣教師と軍艦はセットになって植民地支配を進めていきましたが、人類に対するその後の蛮行はその結果ではないかと思います。

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5)

霊的に密接に結びついていた宗教的象徴を根こそぎ破壊して、
そこに無理やり改竄したものを持ってきたのがヨーロッパのキリスト教です。
これは、オリジナルとは全然違うものなのです。

実は最初からそのような意図をもって改竄されたのです。
人間の精神性をどうやって貶めるか、という計画みたいなものが語られている、「Sの議定書」と言われるものがあります。

そこに、人々の霊性を破壊するために物質、お金、娯楽などに気持ちが行くようにして神とか仏を信じさせないようにしなければならない、と書いてあります。

だから、精神性の破壊は、日本でも同じようなことが起こりました。
1度目は明治時代に起こった廃仏毀釈です。
何百〜何千という数多くの寺が破壊され、僧侶が追放されたり、兵隊にさせられたりもしました。2度目は、敗戦によってGHQの占領時代に行われたものです。

その結果、今の世の中で、神仏を信じている人はほとんどいないでしょう。
神仏を信じるということは科学的な知識がないからだと思っています。

教祖宗教を信じている人がいても、それは神佛を信じているのではなく、教祖や教義、あるいは団体を信じているのです。それは、神仏を信じているのとはまったく違うものです。

神仏、宇宙大霊と結びついていたら、教祖、教義、団体を盲信するというようなことは起こらないのですから。

あるいはスピ系の人は、神仏のことを「宇宙」とか物質的に表現したりします。
が、結局、神仏を信じていない、あるいは敬わないという点では同じなのです。
これは、「わたし自分がスキスキ〜!症候群」に陥っているのも原因でしょうけど。

不安にかられて金銭を追求している人がほとんどですが、これもまた、意図を持ってそう洗脳されています。

あるいは、伝統宗教でも、教義に縛られた時点で、人の無意識レベルでは神様仏さまからは離れているのです。

この場合は要するに、宗教をやっているつもりであっても、真逆の状態になっているのです。

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6)

「大霊と宗教教義は相反するものである」というパラドックスを、そもそも人間は抱えているのです。

ということは、宗教はあっても駄目だし、また無くてもダメだということです。
人間とは、なんとこんなすごい二律背反を背負っている存在なんだろうか、と思いますね。

しかしこれがまた逆に、こんな宗教のウソがまかり通っているからこそ、本物に目覚めていけるという良いことも、パラドックスとしてあるのです。

ただし、成功率はごくわずかで。
この人生でそういうところに出逢うことができたら、それこそ宝くじに当たるよりもラッキーです。

地球に60億人いても、本物に出逢って無限向上の大道に乗れる人はごくごくわずかなんですからね。

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7)

話を戻しますが、大乗仏教にはあらゆる所にパラドキシカルな、どんでん返しがあるんです。それが面白いですよね。

例えば、内なる観音様に目覚めたら外なる観音様は要らなくなる。
でもそれでこそ、外なる観音様に出遇うという、、、。
もっとも時間がなくて、今は詳しく話せないですが。

さて、般若心経のエッセンスは「色即空」(しき そく くう)につきます。
色は現象です。

空はどう理解すればよいでしょうか。
非常に浅い取り方をすると、空は「何も無い」です。

念仏三昧をしていると、身体も外の世界もない状態、空性を体験します。
空性のことは、今は意識的には分からなくても、気がつかないところで無意識に入ってきます。そして、おぼろげに、だんだん分かってきます。

やがて、いつでも瞬間的に、空性の状態が心のなかに想像できる、あるいは心身で体感できるようになります。すると、これが絶対的な支えになるんですね。
というのは、何も無い「空」だから、“何でも想える”という心の状態になるんです。

だからこの空性体験があるとないとでは、人生は大きく異なったものになると思います。
空性体験が無いと、どうしても物質としての肉体、見ている物質世界だけが、自分が生きて認識している「世界」になってしまいます。

おそらく多くの人はこの状態に生きているのではないかと推測しますが、これはすごく苦しいのではないかと想像できます。

というのは、空性体験があると、人生がすごく楽なのです。
拠り所とするものが肉体や物質でないというのは楽なんです。

たとえ大変な状況になっても、「まあいいや」という気持にもなれる。
それに空だから、面白いことでも楽しいことでも何でも心に描けて、想いが自由になります。

空性体験が無い状態で、心をネガティブとポジティブを分けて、「ポジティブにならないといかん!」と思うのは、とても苦しいことではないかと想像します。

ネガティブでもポジティブでもどっちでも思えるというのが一番いいでのです。
その自由性を最大限に活かしているのが、やんちゃなイエス様ではないかな、と思います。

イエスは、ネガティブなことをしたり文句を言ったり、泣いちゃったり自由自在にしていますからね。

かと思うと、2000年経っても残るような崇高な言葉を残している。ようするに、自由性が存分に発露された存在だったということです。

お釈迦様にしても法然上人にしても軽妙な自由さをもって質問に答えたり、アイデアを出したりしていますね。

法然上人の質問に対する答えは本当に絶妙で面白いです。
「お酒を飲んでもいいのか」と聞かれたら、「それも世の習い」とか、
パッと答えたりしています。

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8)

実は「空」とは、ありとあらゆることが入ってくるということです。
地獄から浄土までの三千世界が入ってくるとも言えるし、入れることができるとも言えます。

三千世界ということは阿弥陀様です。
阿弥陀様は宇宙大霊、一切そのものですから。

阿弥陀様は空性であると同時に、一切を発現させるのです。

自我で想像できることには限界があります。
でも、実際の三千世界の実態は、われわれ人間の自我の想像などはるかに及ばないほど超えているのです。

空性体験や阿弥陀様との融合体験が深まるほど、想像の対象が広がっていきます。
心が豊かになり、人生を豊かにする心のすべが現れて来るんです。

そもそも存在とは、そんなに限界のあるものではありません。
肉体だけ、物質だけというのはすごく狭い、限局された世界に過ぎない。

狭い世界で生きるのではなく、大きな世界で生きるほど色々なものが入ってきて、人間は自由になります。

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9)

無限向上で上を目指せば目指すほど豊かになっていくのです。
「霊的に上を目指すならば物質的には貧しくならなければならない」という風に宗教が教えています。しかしそれは、人を霊的な方向に行かせないように改ざんされた部分なんです。

お経が説いていることを、「外のもの」として捉えると、どうしてもイメージが限局されていきます。
だから般若心経で説く観自在菩薩は、「内なる観音様」と捉えるのです。

その後続く、「色即空」は、最後に「空即色」に戻ってきます。
つまり、現象は空である。空は現象である、と。

空とは、何でも入る無限の大霊、創造の源泉です。
「空即色」とは、それがそのまま自分の人生に現象として顕れるということです。
これが般若心経の説かんとしている世界なんです。

そして、”どうやってこの世界に入っていくのか?”、。
その修行の内容は「般若波羅蜜多」である、と説いています。

波羅蜜多はパラミータというサンスクリット語の当て字で、「お浄土に往く」ということです。
お浄土に往くとは、三千世界、宇宙大霊がそのまま心に顕れてくることを意味しています。

般若は単に智慧と解釈されますが、空こそが智慧の本体です。
どんな状況でも、どう思うこともできる、という自由性のことを言うのです。
人間、念の自由性さえあれば、人生に願いを全て現象化することが出来るからです。

人間にはカルマがありますし、タイムラグがあって思ったことがすぐには現象化しません。でもお浄土では、すぐに現象化します。

人間界はある意味で特殊な世界なのです。
人間界では念の現象化にどうしてタイムラグがあるかというと、カルマがあるでしょう。

カルマと言っても、一人ひとりのカルマは皆で共有しています。
実は「私のカルマ」なんて無いのです。

だから、私が心を変えるということは、全部の人の無意識を変えることになります。
これが大変で、時間がかかるのです。

人間の心が変わるというのは一大事業なのはこのためです。
まただから、繰り返し繰り返し、我が心を阿弥陀様の世界に融合させていくことが必要なんです。

これを般若心経では。「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦…(ギャーテー ギャーテー ハラソーギャーテー/往けり、往けり…)」と繰り返し説いているのです。

一念、一念、生きとし生けるものの救い、悟りを願い、一切が変わることで心が変わり、身体も人生も変わっていきます。

だからこそ我々は、一切の向上を願っていきます。
自分だけのことを願うというのは、本当はありえないのです。

「私が幸せになってから、人を幸せにする」という人がよくいますが、本当は全部をお互い共有しているから、そもそも私も人も無いのです。

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10)

自己を消失するというのが空性体験です。
人生に空性体験があったら、ものの見方がガラッと変わります。

私というのは一切の顕れであり、同時に如来様の顕れでもあります。
一人ひとりは一切の顕れで、カルマも仏性も共有しています。

宇宙全体の如来様が顕れているのが、個々の存在です。
言うのは易いですが、実際には大変な話ですよ。

だって、そんな対象として思いたくない人がいっぱいいるじゃないですか(笑)
”自分の中に一切が含まれるのはいいとしても、あいつの中に自分が含まれるのはイヤだ”とか思うでしょう? (笑) 我は嫌がりますよ、これ。

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11)

真実の世界は、一切の中に一切が含まれるということですから、どの個も存在しないということでもあります。

どの個も存在しないが故に、個の中にすべてが現れ、さまざまな働きをしているのです。

そういう世界が拓けてくると、一切の因縁が空間的な広がりをもってつながってくるのが体感されて来る。

と同時に、果てしない過去からずっと先の未来まで、時間的な広がりをもって、人のことも自分のことも見ている状態になります。

同時に今の一念の中に、全部の未来が含まれていることもわかります。
そう思ったら、今の一念を蔑ろにできないでしょう。

一念一念が全部、未来の種ですからね。
自分の今一瞬の行動も言葉も、未来の種になります。

「この一念をどこまで光り輝かすか」、と思ったらやる気を出して修行せざるを得ないでしょう。

一瞬燃焼し尽くしたら、一切の未来が輝く。
そう思って一念一念悔いなく輝かせていけたら、素晴らしいサンガが生まれてくると思います。

自分の中に一切があるのですから、
自分がやらなかったら一切が変わりません。

一人ひとりがどこまで輝いていくか、なんです。

(合掌)