直面力/カルマが光と化す宇宙の悟り

カルマが光と化す宇宙の悟り
法話ライブ at 京都道場  2016年3月5日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://youtu.be/Zy1PRLv0-qs

1)ネガティビティこそが大愛に照らされる

念仏修行のステージは、難思光、無称光、超日月光というプロセスを経て進みます。

まず、「難思光」ですが、これはそれまで持って来た日常の意識では、想像すらできず、“思うことが難しい”、という意味です。

これを経て、それまで普段認識していた世界とは、まったく違った、新しい心の世界が開かれるのです。

そもそも仏道修行は、お釈迦様が説いた五根五力を前提に始まります。
五根とは5つの能力のことで、その力をつけるということです。

信力・・・ 信仰を持つ力
念力・・・ 心を集中させる力
定力・・・ 心が瞑想状態になっていく力
精進力・・・ 現状をぶち壊して新しい物を産んでいく心の力 
慧力・・・・ 無意識にあるものを見通す力

仏道修行にはこの5つの能力が必要であり、最初はこれを練っていくのが難思光というステージなんです。

お釈迦さまが説かれた五根五力と平行して、タオサンガでは「四根四力」というものを説いています。

今回は時間の関係で全部は話せませんが、一部だけ、ざっと述べてみることにします。

◯直面力

自分の心を認識する「内観力」と言ってもいいのですが、自分の心の闇と向き合う力のことです。

そもそも自分の心と向き合うには、自分の心が見えていることが前提ですね。
もっとも、本当は皆、自分の無意識はわかっているんです。

“分かってはいるけど、、、”、というところなんです。

心の底では、未来の為には本当は何がいいのか、は分かっているんです。
ところが、色々なもの(我)で、自分の心の目を塞いでしまうんです。

それは、言い訳だったり、見えていないふりだったり、怒りなどのネガティブな感情に振り回されているためだったり、、、、いろいろです。

「直面力」を養うには何が必要なのか?
どういう修行をすればよいのか?

ネガティブなカルマから解放されるためには、タオサンガで行っている中念佛による「光化三昧」のメソッドが有効です。「光化」とは、“ネガティブなものを光と化す三昧”という意味です。

これは、悪いものを良くする、ことではありません。
実は、そうではない。

ここのところがが面白いのですが、「ネガティブなものはネガティブなまま、それ自体が光だということに気がついていく。そうすることでネガティブは力を失い、むしろ光になる」ということなんです。

ネガティブを否定すると、ネガティブに引きずられてしまいます。
でも光化三昧によって、ネガティブを否定する必要がなくなるのです。

光化三昧では、ネガティブなものが強ければ強いほど、ネガティブそれ自体が光明、喜び、力になるという逆転現象が起こるのです。

この世界のあらゆる存在は、光と影のように全て相対です。
だから、“こちらが悪い”とか、“あちらが良い”とかいうものではありません。
ネガティブもポジティブも、表裏一体でコインの裏表ですから、ネガティブがひっくり返ることで、それ自体が素晴らしいという逆転現象を起こすのです。

光化三昧によって、親鸞聖人が「自分の業が深いほどそれが喜び、歓喜になっていく」的なことをおっしゃったのと、同じ体験が得られるのです。

それは、“ネガティビティこそが大愛に照らされる”ということです。

2)ネガティブとポジティブの対立がなくなったら、どこまでも心は深まる

人間の心には金剛心という、意志をクリアにする智慧の働きがあります。
金剛心は、氣のワークで形も働きも体験できますね。

例えば、無意識では(「氣」においては)、未来にとっては良い、とわかっていても、そちらを選択しないことがあります。

我=エゴは、未来の幸福よりも、目先の楽や利得を求めるからです。エゴは、幸福とは逆の方を取らせようとするのですね。

だから幸福になりたければ、無意識をクリアに見る必要があります。
この“無意識をクリアに観る”というのも、金剛心の働きの1つなんです。

仏教で「金剛」というのは、ダイアモンドのことです
よい意味での硬い、我に妥協しない、透明で不動な心です。

無意識を見て、「これをやるんだ!」となったら、それは金剛心が働いています。
これらは気のワークでわかるので、ぜひ体験していただきたいと思います。

氣で観ると、金剛心の中央には、硬いパチンコの玉くらいの大きさの剛玉(ごうぎょく)があります。

中念佛のメソッドをやっていくことで、カルマとか魔とかいった霊的にネガティブな存在やエネルギーが光と化していきます。
日常でも光化三昧が起き、カルマから解放されていきます。

光化三昧においては、他人のことも自分のことも、ネガティブなことがネガティブではないように感じられます。

ネガティブなのは無意識で見えていますが、それをネガティブとしてとらえず、同時に光として認識するのです。

なぜそれが可能なのか?
直面することによって如来様との対面が起きます。
ありとあらゆるネガティブなものは、同時に光でもある、つまり対立ではなくなるのです。

ネガティブとポジティブが分かれなくなるのです。
ネガティブとポジティブの相対がなくなるのです。
すべてOKになる。

だから自分の無意識がネガティブなものを含めて、そのまま見えるようになって来る。そういう智慧がいただけるのです。

自分や他人のネガティブを否定しても、苦しくてしょうがないですね。

でも、ネガティブとポジティブの対立がなくなったら、どこまでも心は深まる。
マルクスの言う弁証法的な発展と同じように、対立、相対がそのまま向上になっていきくのです。
これを「如来の平等性智」をいただくと言います。

これは、「良いも悪いもあって世界は成立している=平等である。光と影、どちらもあって成立している」ことが認識できるということです。

3)どのような名前で呼ぶかによって変わる宇宙の反応

先週から、思い切って異宗教合同融合念佛を始めました。
これに踏み切った理由は、タオサンガ念仏のイメージ技法に基づいて行じれば、
ほかの神様の名前を唱えても、同じような効果が得られることが、
自分で実験した結果、分かったためです。

ただし、南無阿弥陀仏だけが得られる効果もあります。

その1つは摂取を受ける、つまり融合を受ける、念佛を唱えることによって、
如来様の融合を受け、摂め取ってもらえる、ということです。

もう一つは回向です。
回向というのは、行によって、他の関係ない人にも如来様の光明が及んでいくということです。

ここのところを経典には、「無縁の慈悲をもって」と表現しています。
これは「無縁の衆生にも力が及んでいく」ということです。

阿弥陀様がどういう存在かというと、宇宙大霊ですから、どんな名前で呼ばれようと同一の霊体です。
ここが明確でないと間違えてしまいます。

ここは、キリスト教徒にもユダヤ教徒にも、またイスラム教徒にも必ず理解してもらわないといけないところです。

名前が違ったら違う神様、ということだと「どちらが本当か」という論争の元になってしまうのです。

どちらかしか正しくない、ということになるから大問題になるのです。

だから同じ大霊を別の名前で呼んでいるに過ぎないのです。
ただし、どのような名前で呼ぶかによって、働きというか、効果というか、宇宙からの反応が変わります。

4)最も悟りを開かせる相(すがた形)

さて、宇宙大霊は全ての形、識を作る根本であるとすると、我々の拝んでいる阿弥陀様のご絵像とは何か?、という話になります。

そもそも大霊は本来、形にならないもの。
だから、お釈迦様の死後500年くらいは仏像を作るのは禁止だったんです。

それに原始仏教の時は、大霊という概念はありませんでした。
法身仏(宇宙大霊)は、大乗仏教から出てくる概念なんです。

皆さんがワークショップで体験するように、何らかの形を見ることで、心も身体も変化します。ニコニコしている人を見たら、気エネルギーは強くなる。元気になる。
逆にしかめっ面を見たら、氣エネルギーは弱くなるから、健康に良くないです。

往生要集という1000年前に源信という人が書いた本には、仏様のどの形を見ることで、どのように心が変化するなどを詳しく書いてあります。

仏さまには、通常三十二の相(形)と、さらに86の細かい形があります。
イメージは無意識に直結するから、形をみると心が変化するのです。

お釈迦様から2500年という時を経て、弁栄上人が、「最も悟りを開かせる相(すがた形)」のご絵像を描かれました。

大霊と融合し、実際に大霊が対面して下さると、如来様は、ご絵像のようなお姿として現れて下さる。これ、不思議といえば不思議です。

阿弥陀様の根本は大霊ですから、元来形にならないのですが、最も悟りを開かせるお姿をして現れてくださるのです。

神仏と接した時、何らかの感情が揺り動かされます。
これを、宗教感情と言いますが、宇宙大霊は、この宗教感情を通して、
お姿として現れてくださるのです。
キリスト教ならイエス様の姿で現れてくるかもしれません。

キリスト教神学では、イメージによって悟りを開くというシステムはできていませんでした。仏教では2000年前から始まって、哲学としてできています。

5)一切の宗教の人々が共に修業する場になり得るタオサンガセンター

お姿と大霊の関係は、方便と真実との関係でもあります。
方便は悟りに至るための手段という意味です。

もっとも、方便といえば全て方便なんですよ。
念佛も仏様のお姿も方便、悟りの手段です。

ところが逆転して、方便そのものが真実となる。
この「逆転の真実」ところがすごく面白いんです。

方便と真実は、互いを映し合う鏡が2つ向かい合うようなもの、
互いにどこまでも映し合い、深まり続けるものなのです。
法華経にも、方便品という章があります。

キリスト教、イスラム教の人に、一緒に宗教融合の念仏をしようと勧めるときには、
イメージが大霊につながる方便であり、かつ逆転して同時に真実(実在)でもある、
という想いを持っている必要があります。

このイメージとメロディによって、念佛の特徴である摂取と回向が起きることは、
気のワークでみなさんも体験できますので、人に納得していただけますし、
タオサンガが、あらゆる宗教の根本の真実というものを人々にお伝えしていくことができるのです。

佛という言葉自体、固有な何かを指しているわけではありません。最新の物理学者の中には、宇宙を1つの巨大な頭脳と言う人がいるように、大乗仏教で説く「佛」とは、宇宙を悟りの精神態であるという認識に基づいているのです。宇宙大霊の現れを、佛と言うのです。

念仏とは、宇宙大霊の現れである佛を念ずる、ということですので、異宗教融合念佛を行うタオサンガセンターは、一切の宗教の人々が共に修業する場ともなり得るのです。
    
(合掌)