三法印/あっ! と驚く仏教

あっ! と驚く仏教
法話ライブ at 京都道場  2016年1月16日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://youtu.be/6D8-2TaX9_A

ここで話していることは仏教の最先端かも知れませんよ。^ ^
いずれにしても、既成のものには無いことばかりでしょう。

でも今日は、基本的な所からお話ししようと思います。
もっとも基本的なことすら、本質から考えると、
既成の解釈とでは、ずいぶん変わってしまいますが。

仏教の専門学校や大学で最初に仏教を習うことは、
まず「お釈迦様は何を説いたか?」です。

そこで「三法印」。
三つの仏教の印は何か? が基本として出てきます。

○諸行無常
これは、日本人の根底にある心です。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。(平家物語)」

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。(方丈記)」

何ものも一瞬たりとも定まったことはない。
我々は同じ場所にいる、と思っていても、
そういうことは絶対ありません。

地球は太陽の周りを回って、
太陽系は銀河系の中を回っています。
銀河系自体が回転しながら移動しています。

ということは螺旋、スパイラルの動きです。
だからDNAと一緒なんですね。
面白い! マクロとミクロが一致していますね。

1)
なぜ宇宙は、こういう構造になっているのでしょうか?
本質がわからないと、
“どうせ一瞬たりとも同じものがないから執着してもしょうがない。諦めましょうね”
と、何だか暗い話になってしまいます。

「無常」という言葉は、何だか暗いイメージでしょう。
音楽で言うとマイナー(短調)。

でも本当は、そうではありません。
瞬間ごとに霊的に向上していく盛り上がっていくのが無常。
むしろ金ピカなイメージですよ。

日本の仏像は「侘び寂び」というか木像です。
でも元々は金ピカだったのです。

タイの仏像は金ピカだし、ミャンマーだと電飾がついて、
“ここはキャバレーか?お寺か?”という感じですね(笑)
日本の仏像は金箔がはげてしまったのです。

2)
瞬間ごとに盛り上がっていく世界がお浄土ですよ。
でも人間は、なかなかこれをイメージできません。
だって、パーティーが終わったら寂しいじゃん…みたいにね(笑)。

人間は、物質という全てが劣化していく世界に生きています。
だから無常というのは、「せめて変わらないでいて」という心持ちで考えてしまうのです。

お浄土は劣化しないどころか全部が向上していきますよ。
我々は「そういう世界が果たしてあるのか?」と無意識に疑ってしまいますけど。

3)
それに我々が思っている向上というのは、「Aの状態がよくないから、少し上のB状態になった」と比較の結果です。
だから、「、、、となると、Bになる前のAの状態はよくなかったんだな」となります。

ということは、概念的には、「AからB、BからC、CからDと、どこまで向上したところで、その前は良くない状態」なんです。

向上するということは、過去はいつまでも悪い状態だった、
となってしまうのです。

これではものごとを明るく考えられない。
相対の世界に生きていると、どうしてもそうなってしまいます。

4)
お浄土は絶対の世界です。だから、最高に素晴らしい。
けど、もっと素晴らしくなる。

この「絶対の中にさらに向上がある」というのは、なかなか分かりにくいです。

絶対とは相対がないということ。
相対がないとは、対象を知覚しないということです。

自分も他人もなく、自分も如来様も無いのです。
だから禅では、空というのは何も認識しない、という捉え方をします。

ところが空の中に如来様が顕れる。
絶対の中に向上がある。
絶対の中に認識がある。

つまり人間の持っている認識とか世界観とは全く別の世界観が、
浄土の世界、仏の認識なんです。

5)
相対を超えた絶対の空の世界に入って、
そこからさらに、如来様の実在というところに至る。
さらに、そこから、無限向上の世界という、
宇宙の実相が開かれることになります。

そのように認識しないと、どうしても諸行無常は、
暗いイメージになってしまうんですよね。

●諸法無我

これは「何者も独立した個としての存在はない」ということです。

でも「独立した個は無い」というだけで終わってしまうと、
あまり明るい話には聞こえません。

“無かったらどうなの?” みたいな。
独立した個は無い、いやある、と喧嘩したりして(笑)

1)
独立した個とは何なのでしょうか?
個というのはすべて、宇宙くまなく一切合切が表出した顕れです。

だから個の中に一切があるのです。
同時に個が一切を動かしています。

これを相互反映という言葉では不十分かもしれません。
もっとわかりやすく表現すると、「すべて、どうにでもなり得る」ということです。

何のために宇宙がこういう構造になっているのか?
それは、一切が完璧な自由性を持っているということです。

2)
一見独立した個が無いというと、一切に縛られているように思います。
ところが、逆なのです。

個が一切に影響を与える。
個が一切を変化させる力を持っているのです。

「宇宙が一切が集約されているから、個にはそれだけの力がある」
という非常にポジティブな話なんです。

言い方を変えると、一人ひとりに如来様そのまま顕れているのですね。

我々は我やカルマのフィルターを通して自分を認識するので、
自分を小さく感じたり、世界を暗く感じたりします。

舎利佛が「お釈迦様のように偉大な聖者が現れたのに、なぜこの世はこんなに汚いのでしょうか?」と聞きました。
するとお釈迦様が「それはお前の心の顕れだから」と言ってお浄土をパッと見せる。
そこで舎利佛は、「浄土がが真実の世界なんだ」と悟った、とそういう話があります。

人は如来様のひとり子として、宇宙一切を動かす力を与えられている。
それだけの力を内在しているのですよ。
これが、真の意味での「諸法無我」です。

だから諸法無我は、素晴らしい自由性を持ったポジティブな話です。
なのに、「諦めましょうね」みたいな暗い話になりがちですね。

3)
諸法無我は、ヒンズー教とかバラモン教という、
当時の一般的な宗教との違いを打ち出すためにお釈迦さまが、
仏教の特徴として打ち出されたもの、とも言われています。

輪廻は、バラモン教やヒンズー教から来ている思想です。
原始仏教には、現在のような意味での輪廻は、あまり説かれていませんでした。

でも、キリスト教でも、カタリ派には輪廻転生があり、
イスラム教にもあるらしいですね。
だから輪廻転生は、世界的には一般的な考えなのだと思います。

もともと聖書にも輪廻転生が入っていたらしいですが、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がニカイア公会議で「これは削除しよう!」とか適当に決めました(笑)。
こうして宗教の本質がねじ曲げられていくのですね。

4)
バラモン教の考え方では、「我々の心の根底にアートマンという霊があり、ブラフマンという宇宙の霊と融合する」というものです。

仏教と非常に似ているように感じるでしょう?。
それは仏教が密教化する過程で、バラモン教的なものが入ったから、
と言われています。
だから原始仏教的には違うのですが、まあその辺は話が複雑になるので置いておいて、、、。

バラモン教の思想と仏教のどこが違うかというと、
バラモン教では、アートマンは絶対不変という考えなのです。
「アートマンは死んでも変わらずにある」と。

ところがお釈迦様はこれを否定しました。
お釈迦様の教えでは「諸法無我」。
だから、そもそも個が存在しない。
個が存在しなければ、アートマンってなに? ということになりますよね。

また、「諸行無常」だから、継続した個もない。
となると、アートマン不変とは、真っ向から対立します。
当時のヒンズー教徒にとっても「えーっ!」という感じではなかったかと思います。

輪廻転生は、仏教の一大問題です。
というのは諸法無我なら、我々の実体は何なのか?
輪廻の主体は何のか?
なんて、仏教でも昔からよく議論されて来たのですね。

5)
我々は肉体を持っているから、今このように世界を認識しています。
でも、肉体を持っていなかったら、今現在のような形では認識していないでしょう。

臨死体験では、まだ同じような自分として認識しているみたいですね。
でも、それはいつまで続くのでしょうか? 
それは分かりません。

今、男性の肉体を持って認識している世界と、
女性の肉体を持って認識している世界は違うでしょう。
幼稚園児の認識している世界と、中学生の認識している世界も違う。

人間は、カルマで世界を認識しているので、
今後も今とずっと変わらないと思ってしまいます。

でも次の人生(?)では、全然認識が違うはずですよ。
動物に生まれたら大変ですよね。いや、ご愁傷様です(笑)

6)
一体存在に主体はあるのかないのか?
量子力学では「認識しているから世界がある。認識していないと世界がない」といいます。

寝て起きた時に世界を同じように認識する。
それは、我々に内在している識の投影として世界が成立するからです。
それが継続しているのは、識が変化していないから過ぎません。

本当は、識が変わったら一切変わるのです。

そう思ったほうが楽しいというくらいに、執着しない方が良い。
諸法無我が達成されたら、世界を変えるだけのパワーが有るということです。

面白いでしょう。
執着しているのは不安だからなのです。
どうにでも好きなように変えられるのが本質だったら、どんなに変わってもいいじゃないですか。

7)
そういう世界が信じられるかどうか、というのが一つの大きなハードルです。
全然信じられない人もいるでしょう
量子力学とか言っても知らねーよ、とか(笑)

物理学は人間の世界観を変えてきました。
未だにニュートン力学でやっていますけどね。
でも、それも崩れてきていますから、人間の世界観が変わってくる可能性があります。
学問がネガティブな勢力にコントロールされなくなると、
もっと本質が顕れてくると思いますよ。

信じられる、というのは非常に大きな問題ですので、
五根五力という修行の能力の最初に「信根」が出てきます

よく「根性」というじゃないですか。
「根」とは、魂の資質みたいなものです。

感性のことも根と言いますが、
そういう根があれば、教えを信じることが可能であるということです。

これには、持って生まれたものもあるでしょうね。
まだ根が芽生えていなければ、今回の人生で修行に入るのは無理かも知れない、
ということです。

柔軟であればあるほど、頑固さが無ければ無いほど、
佛の世界には入りやすいです。

法華経で最初の頃に出てくる言葉に、
質実柔軟(しつじき・にゅうなん)というのがあります。
お釈迦様は、「性質が柔軟であることが大事だ」と説かれているんですね。

お釈迦は、法華経の内容を最初は、あまり言いたくなかったのです。(経典では)
でも、「お願いします。僕たちどんな話でも大丈夫ですから」と三回くらい強く弟子たちに要請された。

それで。「まあ、しゃあない。じゃちょっとやっか」と話し始めた。
そしたら、500人位が内容に怒って、その場で辞めて立ち去ってしまった。
そういうことが書かれているんです。

彼らは頑固で今までの教えが絶対だと思っていた。
だから辞めてしまったけど、それは仕方がない。
というところで法華経を説きました。
そうやって大乗仏教は進んでいったんです。

8)
お釈迦さまの教団でもいろいろありました。
いとこのダイバダッタがお釈迦様のところから500人位引き抜いて独立したり。

ダイバダッタは、人格的に問題があったと言われています。
が、本当のところは分かりません。

まあたしかに、“こいつ性格が悪いんじゃないかね”と思うところもありますよ。
例えば、ダイバダッタ教団というのが作られました。
で、いくつかの決まり事がありました。

その一番目の決まりが、「お釈迦様を悟った人と認めない」ということ(笑)
これは、よっぽど、すごい対抗心を燃やしていたのでしょうね。

それから、お釈迦様が亡くなった後、「これでオレ達は好きにできる」と喜んでいる弟子がいたそうです。
まあこういう人を弟子とは呼ばないだろうけど、教団にいたわけです。

で、これを聞いた十大弟子の一人摩訶迦葉(まかかしょう、原名はマハーカッサパ)が、このままにしたら教えがねじ曲がって大変なことになってしまう、と危機感を抱いたんです。

それで、弟子を集めて、教えを残そうと、
結集(けつじゅう)という会合を開きました。

当時は文字が無いです。
だから、お釈迦さまの教えを、全部記憶で残そうというわけです。

9)
お釈迦様に、25年くらいずっと一緒についていたアナンという弟子がいました。
お釈迦様の甥子です。
アナンは「多聞第一」といって、お釈迦様の法話を全部覚えていました。
が、お釈迦様が入滅したときは悟っていませんでした。

悟った人でないと結集には出られない。
でもアナンの記憶は必要だ。

アナンは悩み苦しみました。
「なぜお釈迦様のおそばにいながら、自分は悟りが開けなかったんだ!」
と涙を流した。すると、その瞬間に悟って、結集に出られた。
そういう逸話が残っています。

弟子の中には、お釈迦さまに対して非常にネガティブな人もいました。
だから、そういう人たちをダイバダッタは集めたのだろうと思います。

お釈迦様の教団も人間の集まりです。
だから、お釈迦様も苦しんだり、辛いこともたくさんあったと思います、、、。

○涅槃寂静

涅槃というのは原始仏教的には欲望を鎮めた状態です。
元は「風が炎を吹き消す」という意味で、英語、サンスクリット語では、「ニルヴァーナ」です。

ニルバーナは、日本語で、静まった状態、平和を意味する言葉だと思います。
暗い言葉に聞こえるかも知れません。
が、本当はそうではないです。

1)
先ほどお話ししたように、お浄土というのは盛り上がり続けていくところです。
天上界ですら飲めや歌えの楽しいところじゃないですか。
実際、楽しすぎて修行しないくらいに(笑)

涅槃寂静は、お浄土が無限向上の本体であるという意味だと思います。
どれほどお浄土が素晴らしいところか、というのが本質です。

2)
四つ目に、三法印のおまけっぽく、
「一切皆苦」という言葉がでてきます。
おそらく涅槃寂静との対比です。

一切皆苦とは、「生きていること自体、存在すべてが苦しみと感じるのが、人間の本質だ」ということです。

一切皆苦がわからないと、涅槃寂静は分かりません。
果たして我々には、存在を苦しみだと感じる感性が十分にあるでしょうか?

実際には苦しいのですが、我(エゴ)は、これを楽しいという幻想にすり替えます。
人間は、瞬間的に楽しいことを見つけることで苦しみを忘れる、ということを、心のなかで常に行っているのです。

3)
なぜエゴは本質的な苦しみを感じられないのか?
これも先ほどの、「根」と関係があります。

お浄土というのは存在の本質です。
人間界は本質ではありません。

無限に平和で、豊かで喜びが増え続けていく。
歓喜が存在の本質です。

無意識と直結しているがゆえに、そうでない人間存在の苦しみを余計感じる。
そういうことです。

お浄土に対して感性があるかどうかが、苦しみを感じられる感性があるかどうかの決め手でもあります。

果たして今回の人生で修行に入れるかどうかというところとも、これは関係があります。

一切皆苦を感じれば感じるほど、人間はお浄土の世界に向かわざるをえません。
これらの4つをお釈迦様は、一番最初に説かれたのです。 
          
(合掌)