浪費癖が治る方法はありますか?

住職の人生相談コーナー

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遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧・気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


◎外食先のレストランでの話です。
5、6人の若い子連れのお母さんの集まりがあったようでした。
食べ終わりレジで支払いをしている時、待っている5、6才ぐらいの女の子が、少し年下の女の子をつき飛ばしているところを見ました。
私が見る限りでは、意地悪な感じが出ていて、ショックでした。子供は何才ぐらいから無垢な心が失われるのでしょうか?

子どもは大人や世の中の無意識をコピーするので、突き飛ばしたその子自身が意地悪なのか、それとも親の無意識をコピーしているのか、あるいは親ではなく、社会の無意識の影をコピーしているのかはわかりません。
いずれにしても無垢な3歳までが大事。
子どもには「自分が大事な存在である」と3歳までに十二分に感じ取って育って欲しいですね。
そのための具体的なことは、ひたすら抱っこなどのスキンシップ。遊ぶ。
誉める。共感して話を聴く。子どもに自分の気と時間を捧げることです。

3歳までそれができた親は、子どもが思春期になるまでできます。
そして子どもだけでなく、他の人(大人)に対しても、同じように大切な存在として扱うことができます。
何と言うことはない。
子どもを大事な存在として育てる人は、自分の心を育て、他の人に対しても、また「大事な存在」として扱えるようになるのです。
実はマイホーム主義の人って、こういう感じにはならないんですよね。
あくまでも「自分の子ども」として扱っているので、どうしても自己投影が抜けず、時に子どものすることに批判的になっちゃったりするのです。
子どもには、「NO!」という否定的な言葉を一切使わないで育てるべきなんですけどね。

僕としては、世の親に、自分の子としてではなく、仏さまに頂いた子として扱って頂きたいと想っています。
もし本当にそういう想いがあれば、他の人に子どもを世話してもらうことも、ためらわなくなりますよ。

その上で、先の「ひたすら抱っこなどのスキンシップ。遊ぶ。誉める。
共感して話を聴く。子どもに自分の気と時間を捧げる」。
僕としては、いろんな人からそのように扱ってもらった体験をした子が、一人でも多く世の中に出て欲しいです。ホントに、、、。
(そうすれば、ご質問のように、他の子を突き飛ばすようなこともなくなるでしょうしね)


◎お金を貸して返してもらえないのは、過去世で貸した人に借金をしていたから。と言う方がいました。
そうなんでしょうか?

「そう思えば腹が立たない」という意味だと思います。
、、、そういえば、僕にも何度かあったなあ。
実はこれを読んで、自分にもそういう体験(結構大きな額を返してもらえなかったこと)を思い出したんです。

さらにその次の瞬間、“果たして今まで自分は、借りたお金を返さなかったことがあっただろうか?”と、我が身を振り返りました。
お金としてはなかったかもですが、、、、人に受けた親切とか(例えば、誰かを紹介してもらったのに、その結果どうなったか、報告もしなかったとか)、そういう無形の借金はいろいろ返していないなあ、、、と反省した次第です。

先の言葉は、我が身をいろいろと反省するための良い言葉ですね。
というわけで、「貸したお金を返してもらえないのは、人に受けたいろいろな恩義を返していない自分を反省するためのアレンジメントである」というのが今の僕の理解です。
おかげさまで僕も反省できました。ありがとうございました。


◎振り返ると無駄遣いが多いのに気がつきました。
浪費癖が治る方法はありますか?

おつりをもらうときも含めてお金を頂くたびに、「如来(仏様)の御徳(おんとく)であるこのお金に感謝します。
私はこのお金を思慮深く賢明にまた建設的に使います。」と心の中で唱えます。

またお金を払うたびに、「如来(仏様)の御徳(おんとく)であるこのお金に感謝します。
私はこのお金が豊かに流通し、人々に幸せをもたらすように祈ります」と心の中で唱えます。
もし、強い意志をもって毎回これができるようになれば、無駄遣いがなくなるだけでなく、より豊かになります。


◎喨及先生の著書『「気と経絡」癒しの指圧法』のなかで「気は瞬間ごとに変化している。その一瞬とは十八分の一秒である」と書かれています。
これを読んだとき「はぁ、十八分の一秒ってよくそんな短いタイムを判断できるなぁ、すげえ」って思いました。
でもこの間、「もしかしてこれは喨及先生がミュージシャンだから感じ取ることができたんじゃないか。
ミュージシャンじゃなければその一瞬が十八分の一秒だってわからないんじゃないか?」ってひらめいたんですが、単なる錯覚でしょうか?

はい、錯覚です。そのことは、気や経絡がわかるようになってからの体験なので。


◎リボルテックタケヤの仏像フィギュアの出来がすごくいいのですが、まだ阿弥陀如来像はありません。
でも阿弥陀如来像が発売されたら買ってしまいそうな自信があります。
これは堕落でしょうか?

インド人なんかもアイドルっぽく神様のフィギュアを車に飾っていたりしますね。
アイドルって、翻訳すると偶像とか理想化したものということですから。
そのフィギュアを、自分より上の崇高な存在として見るか、自分の下の存在としてペット的に見るかで、気はずいぶん違うでしょうね。
下だったら気持ち悪いですけど、、、。

インドの人は、もちろん神様のフィギアを上として見ていて、その上で「神様大好き!」という感じなのですが、あなたの場合は、果たしてどちらなのでしょう? 


◎姓名判断についての質問です。
江戸時代の武士は、幼名があって、元服後に改名して、さらに長じて号を名乗っていました。
明治の人たち、そして昭和も戦前までは何度か改名する風習が残っていたようです。
人生のステージにあわせて名前を変えるというのは、すごく素敵なことだと思うのです。
根本式では、「号」をつけてもらうこと、あるいは、一度改名したあとにさらに次のステージにあわせて再度改名する、というのは可能でしょうか?

阿弥陀の名号という言葉があるように、号は呼び名ですから、号をつけることは
可能です。ただ、通常使わないのであれば改名効果は出ません。
また改名に関しては、あらゆる面から検討し、それ以上の名前が出ることはないように、最高の名前を割り出しています。

したがって、再度の改名が唯一考えられるのは、結婚して姓が変わるために
新たに改名するケースぐらいです。
しかし最近は夫婦別姓でも問題なくなっているし、運勢は、通常使っている姓名の影響を受けるので、果たしてそれが本当に必要かどうかを検討の上でのことだと思います。