般若心経☆解説−9 〜言葉が世界を動かし、霊が世界を変える〜

言葉が世界を動かし、霊が世界を変える

法話ライブ at 京都道場  2014年5月3日
般若心経解説 第9回
法話:遠藤喨及
動画URL


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=paw_AWUtqbI

(紹介文)

過去、現在、未来のさまざまな仏様もみな般若波羅蜜多、つまり大愛を分かち合うという自らの心のみに依っていると説いています。
その後に、「これはこの上なき真言である」と続きます。
なぜここで真言としたのでしょうか。
言葉そのものが霊である、また言葉でもって心を認識しているためですが、
もっと深い意味が隠されているとも思われます。

(書き起こし)

自分の心にのみ依ることが強さ

前回のところで依般若波羅蜜多、般若波羅蜜多に依るが故に、とありました。
結局自らの心を頼みにするしか無いわけです。

それには少なくとも3つ意味があります
一つは絶対的な信。
この生き方をしていれば、それに応じた人生が展開するという宇宙の法則なり、如来様なりに絶対的な信があること。

もう一つは心の判断基準をどこに置くか、ということです。
心の判断基準は利他とか、大愛を分かち合うというところに置く。
自分の今の言葉なり行為によって大愛を分かち合える、本当に利他である。
それを判断基準にして選択するということがなければ自らの心を頼みにするというのは成り立たちません。
その場合において、不安だから損するかもしれないとか、
でもやっぱり…といって自分の都合のいい方を取ったら成立しません。

3つめは、その他大勢とか、誰かがこう言ってるという外の世界には依らないということです。
その他大勢とか、偉い人が言うことは大体間違ってますから。
大本営発表と原子力安全・保安院の発表とは殆ど変わらないと思ってます。
日本の戦争映画を見てると大本営発表と言って大体ウソの内容を放送するわけです。
これだけアメリカの艦隊を沈めたとか。
必ず最後に「我が軍の被害は極めて軽微なり」と嘘の情報を流して、それをみんな信じていました。
原発事故の後の「直ちに健康に被害はありません」、これを初めて聞いた時、すぐに大本営発表だと思いましたね。

その3つ、これは大変な強さであるけれども、その強さがあってはじめて心のこだわりが無くなっていきます。強さとこだわりの無さは表裏一体ですから。

こだわってガンコというのは一見強いようでいて、強いわけではないですから。
ほんとうに強いのは柔軟なものです。
外に依っていないから柔軟にいけるわけです。
自分の心にのみ依っているから、どんな瞬間にもそこからの展開がイメージできています。
瞬間瞬間の変化に適応できる心の柔軟さであり、体の柔軟さであり、心身は一如なんですね。
心にこだわりがないのが無罣礙であり、恐怖もありません。

ネガティブな動きは霊性を向上させるために起こっている

「外の世界によって人生が成り立っている」という思いを遠く離す、
これが遠離一切顛倒夢想です。
物によって人生が成り立っているとか、物によって社会が成り立っているとかいうのは
夢のような思いである、と言っていますね。
そこからいろんなネガティブなものが生まれてきます。

物質的な世界が前提であるという所に立っていると
自分の人生の目的を魂、霊性の向上におけないんですね。
世の中にいろんなネガティブな働き、我々の霊性の向上を止めようとする働きがあります。
それはある意味故意に行われています。

そのために一見災難とか災厄とみえることが起こったりします。
背後関係についてああだこうだ言うよりも大事なことは
霊性の向上が人生の目的と捉えられていなければ
それ自体が既にその流れに負けているということです。

原発問題にしても戦争にしても何にしても怒ったり、暴いたりしても
霊性の向上が人生の目的に置けないということがもう同じなんです。
そこに気が付かなければいけません。
目的は霊性の向上を起こさせないところにありますから。
うろたえて、恐怖にかられて流される人もいれば
怒ってネガティブになっていく人たちもいれば
いろんな人がいますけど。
結局霊性の向上をさせない、というところにやられていれば同じなんです。

どうしてそういういろんなネガティブな動きが世の中にあるのかと言ったら、
逆転して霊性を向上させるために起こっているわけです。
何もなければ我々の霊性は刺激されて向上しないんですよ。
牧歌的な世界にいたのでは刺激されません。
マンガの「アタゴオル物語」とか牧歌的な世界は僕も好きなんですけど。

霊性の向上を目的とした人生を確立するためにいろんなことが起こっているのに、
それでもって怒ったり、うろたえたり、右往左往したり、わからないままに動かされたり、
色んなことがありますけど、霊性の向上に立った時、必ずそこには修行が生まれます。
本当の修行が生まれるというのは信仰に支えられています。 
本当の信仰とはガンジーが「献身なき信仰は偽善である」といったように、必ず献身があります。
それで世の中を変えていくわけです。
信仰と修行と献身との3つは分けてしまったら成り立ちません。
大きな力をもって世界を変えていくわけです。
それが本当の意味でネガティブに立ち向かうということです。
そのためにネガティブなことが起こっているわけですから、

自分一人の浄土は無い

(経文)究竟涅槃 (くきょうねはん)
浄土を究めていく。
本来は絶対の浄土ですから、それが心の中から明らかに発現していくということ。
自分の心の中から浄土が発現していくということは、
如来様の光明が発現していくことですから、
回向力をもって他の人達を感化していって他の人達も同じように光明に入っていく

さらにそこに留まらず、その人達自身が自ら光明力を持って他の人達を感化して、
光明力といった無限の因縁のつながりが生まれていくというのが本当です。 
それが本当の南無阿弥陀仏ということです。

それのない、ただ「いただきます」というものではないですね。ご飯じゃあるまいし。
無限の因縁を持って世界は成り立っていますから。 
諸法無我というのは全ては無限の因縁の連鎖にあるということですから、
自分一人で終わるというのはそもそも存在しないんです。
自分一人のものとすること自体が、顛倒夢想なわけです。

「もっと修行してから、他の人と分かち合います」というのも顛倒夢想なんです。
本来の自分には、内なる浄土が発現しているし、また自分の本来性は仏性なんです。

最初から本来の所に立つのが本当です。
いつか、というのはないんです。
だから法華経に、たとえ8歳の龍の女の子でも人々を救うという心を持った時には世界の導師、リーダーなんだとあります。
(注:娑竭羅龍王の女年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説・甚深の秘蔵、悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、刹那の頃に於て菩提心を発して不退転を得たり・・・)

法華経が書かれた当時は女性は差別の対象でした。
女性が差別の対象になるというのはくだらない理由です。
人間は戦争の歴史だったでしょ。戦争は男がするじゃないですか。
何年もかけてずっと領土を侵略していって土地を奪ったら男は奴隷にして女性たちは兵士の妻になるんです。
今みたいに飛行機で爆弾を落とすなんてことは無いですから。
インドもアーリア人が侵入したけど、女性は現地の人でしょ。
アーリア人の女性が軍隊と一緒に来たわけじゃないですから
その名残でもって差別の対象になった、というくだらない理由です。

人種差別だろうと何だろうと、あらゆる差別は妄想ですからね
それはもう本当に恥ずかしいことでね。
妄想も人数が増えると力を持って大変なことになります。

(経文)三世諸仏、依般若波羅蜜多故
三世、つまり過去現在未来の諸仏もみな般若波羅蜜多に依っています。
他に何に依るというのでしょうか。
誰かに言われてどうしたということではないでしょ。

自らの生き方に、自らの言葉に、自らの行動に。
それのみですよ、依れるのは。
それのみですよ、自分の心が開けていくのは。
他の何に依って心が開かれますか。

言葉は霊から生まれている

(経文)是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪
呪とは真言という意味です。
この上なき真言である。
これは明らかなる真言である
…とずっと続いているでしょ。

とにかく真言、真言、真言と続くじゃないですか
真言とは何なのか、となりますね。言葉が素晴らしいのでしょうか。
般若心経という言葉が素晴らしい、と誤解したりします。
これはすごい深い意味を含んでいます。

聖書でも「始めに言葉ありき」でしょ。
色んな意味を含んでいるというのは、たとえば
我々がもし言葉を持たなかったら世界が無いわけです。
幼少期のヘレン・ケラーみたいなものです。
言葉を理解しないということは世界を理解しないということです。
言葉を超えた世界というのも当然あるんですけど、
言葉がなければ世界を認識しないですよね。
ヘレン・ケラーは何を認識していたのか、と想像すると感覚が反応しているだけでしょう。
感覚というのは感情もあったと思いますけど、あれは感情なのだろうか。
ただの虫と同じような感覚の反応なんだろうか、という疑問もあります。
我々が深読みして「感情で怒っているのだな」とか「喜んでるのだな」と思いますが。

言葉がある、ということは世界を認識するということで
世界に対して力を持つということなんですね。
なぜかというと、実は言葉は霊から生まれているんです。
一つの言葉が産まれるまでに人類の歴史を全部背負ってますからね。
もちろん翻訳というのは別の話ですけど。
最初は何の言葉もないわけでしょ。

一つの言葉を「こうなる」と繰り返すと現実が変わるということがあるでしょ。
言葉が霊として力を持ちますから。
言葉でもっていろんな霊的な力を発揮させるので真言と言ったりするわけですけど、
言葉そのものが霊なんですね。

どういうときに霊的な力を失うかと言うと、自分の言葉と自分の行為が分離してきたときです。
自分が言ったことをやらないとか、自分が思っていないのに言うとか。
それが自分で分かっていると、どんどん分離していきます。
その人の人生は力を失っていきます。

般若波羅蜜多、つまり心に依る、と言いながら、なぜここで真言としたのでしょうか。
言葉でもって心を認識していますし、言葉でもって行為を認識していますから
そういう色んな意味を含んでいると。
これはまだちょっと浅い解釈だと自分で思いますけど。

もっと深い意味があるんだろうと思います。
そうでなければ真言と繰り返し繰り返し出てこないでしょ
おそらく相当の意味をもって説いている部分だと思います。
是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪
こんな風に4回も出てきますから。

(経文)能所一切苦 真実不虚
しかも一切の苦しみを解き放ちます、真実にして偽りならず、と言ってますね
すごく考えさせられます

そのあとさらに羯諦 羯諦(ぎゃてい ぎゃてい)と出てきます。
おそらく是大神呪・・と羯諦 羯諦・・のところは対になっていると思います。
どういう意味を持つのか、最後の部分は謎が残っています。
恐らくこれは世界の未来を暗示する部分のような気がします。
自分の心を掘り返していく過程においてどういうことが起こるのか、というのを含めてですけど。
そういう意味で般若心経は尽きない部分があると思います。

(経文)故説般若波羅蜜多呪 
故に波羅蜜多の真言を説く

(経文)即説呪曰
即ち真言を説いて曰く

(経文)羯諦羯諦
お浄土が発現する、お浄土に往く、あるいは如来様と融合する

(経文)波羅羯諦 波羅僧羯諦
さらに往って往く。「往く」で終わりじゃなく、往って往くなんですね。

(経文)菩提薩婆訶 般若心経
このように悟りに至る。
般若心経とは大霊の如来様を讃える言葉であり、詩なんです。
浄土の讃歌なんです

(終わり