般若心経☆解説−1 〜人生すべてがうまくいく道〜

人生すべてがうまくいく道  般若心経 第1回

法話ライブ at 東京道場  2014年3月8日
般若心経 第1回
法話:遠藤喨及


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=hwi7BjYbh2A

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人が切心において内なる菩薩に目覚め、
法を受持した時に、宇宙大霊を実感します。

大霊につながれば、未来は明るいし、不安はなくなるし、
またいろんな自由が叶っていく。
まただからこそ、これを人と分かち合いたいと思うようになります。

この中には、もうすでに、目の前に実在する大霊というものを
実感されている方もいらっしゃると思います。

大霊をどのような段階を追って人は体験していくのか?
これを 般若心経を通して、ちょっとお話できればと思います。

最初に出てくるタイトルが、摩訶般若波羅蜜多心経。
摩訶というのは宇宙大霊のことなんですね。                     
サンスクリットでは、マハーという、
偉大だとか優れているとか、そういう形容詞なんです。

それでよく“大いなる智慧”とかなんとか、 
解説本には書いてあるんですね。

般若(パニャー)っていうのは智慧ですけど、そもそも宇宙そのものが智慧。実際には 宇宙そのものが智慧によって創造されているんですね。

智慧というものが、どのような働きを持ってるかと言うと、
これは創造の働きです。
つまりクリエイションですね。

どういう風にして宇宙は創造されるか、っていうと「想像」なんですよ。
像を心のなかに作る。ある客体という姿を心のなかに作るのを、
想像といいますね。

我々人間というのは、相対的にしか物事を認識しませんから、
「私が、何かを想像する」という風になりますよね。
私という主体と、想像した客体との相対的な関わりです。

ところが人間以上のレベルになってくると、想像のレベルもまた違うんです。
そこでは、相対を超えた想像っていうのが、実際に存在するんです。

もっとも、人間以上と言っても天上界くらいだと、ちょっとまだ浅いですけど、お浄土レベルの存在になってきますと、相対を超えた想像です。

じゃあ、それによってどうなるか、というと、主体と客体が分かれない絶対の想像ですので、想像することがそのまま、それ自体がもう実在しているんです。
像を心のなかで結ぶってこと自体が存在であり、それが実在なんです

人間界でもこういう現象は起こります。
心にイメージすることによって、それが現実化してくっていうのは、
人間界でももちろんあるわけです。如来様の力の一部を頂いていますから。

ただ人間界の場合は、タイムラグがあって
時間をかけないと、現実化していかないのです。
でもお浄土は、想像がそのまま創造化して、「即」なんです。想像と創造が表裏一体なんですね。

 そういう絶対的な想像というものが存在していて、宇宙の根本である大霊は、絶対想像の働きによって、宇宙創造の源を為しているんですね。

さて般若ですが、これは智慧のことで、想像というのは一つの能動的な動きです。心のなかの能動的な動きのことを、智慧と言います
そして、それによって像が結ばれることを「観」というわけです。

宇宙っていうのは能動的な智慧であり、
相対を超えた絶対イメージによって、万物を生み出していく。
その宇宙大霊の想像=創造の働きが、摩訶般若という智慧、なんです。

そして、 この智慧、客体として想像できる阿弥陀様の姿をイメージすることによって、宇宙大霊につながることを、摩訶般若波羅蜜多というんです。

波羅蜜多というのはパラミッターのあて字ですけど。
パラミッターってどういう意味かというと、
これを普通に翻訳すれば
彼岸に至る、 お浄土にいくという意味、あるいは悟りを開く。

大霊の世界に、そのままストレートにつながり融合することをパラミッターといいます。
だから大霊とつながると、お浄土が心のなかに現れてきます

ということはどういうことか?
自分の想像が、そのまま現実化していく力がつく。

またそこは、全ての人生が万般思い通りに叶っていく世界なんです、大霊の世界は。
なぜなら、それが本当の世界だから。

実際に大霊というものが、心のなかに体験できて、
そして実在することが体験できるわけです。
大霊が在すことを。

本当は誰の目の前にも大霊が在すんですよ。存在するんです。
それはまさしく、自分だけの大霊。

逆に言うとね、大霊の阿弥陀如来さまは、一人ひとりに対して、
まさにご自分のひとり子として、一人ひとりに向かい合って下さっている存在なんです。

もし、そこにつながることができれば、
当然、浄土に往生することもできる。

それが浄土の世界だし、それが真実の世界ですから。
それを「実相円満顕浄土」という言葉で表現し、これがお勤めの途中に出てくるのです。

実相円満というのは、“真実の世界は、全て円満なる大霊だから、
そのままで浄土が顕れてくる“という意味です。

 浄土が顕れるというのは、
自分の思いがそのまま全て現実化してくっていうこと。

 何一つ、それをためらうことはないし、
また何一つ、自分の抱く願いを否定する必要もないんです。

実は、自分が願うことこそが、まさに大霊が自分に願って下さっていることだから。

イエス様が、キリスト様が
“求めよ、さらば与えられん”とおっしゃった。
“パンを求めているのに、石を与えるような親がいるだろうか”と。
“神はあなたの願いを聞き遂げて下さるんだよ”と。
 そういうことばが聖書に出てくると思います。

「願いは必ず叶う」のはなぜか?
それは、外なる実在の大霊と、自分の内なる阿弥陀さま、自己の内なる仏様との関係性が「即」だからなんです。

もっとも、自我によって、大霊と隔たっていたり、
またいろんなカルマによって、如来さまを遠い存在にしていればいるほど、
逆に、想いが実現するということからは遠くなります。

でも、阿弥陀さまとの距離が近ければ近いほど、
大霊との距離が縮まれば縮まるほど、
想像がそのまま創造になっていく。
浄土の世界が、自分の人生として発現していくのです。

それこそが、自由性ですよね。
カルマに縛られない「自由性」に目覚めるというのが、
仏教の本当の目的です。

何も欲望を否定して、色んなことをあきらめて暗く生きなきゃならないとか、そういうものが仏教ではありません。
自分の持っている無限の可能性を発現していく。

そしてそれが、修行によって可能になることを証明していく。
これこそが、今この時代において、本当の意味で仏教を実践する、ということなのです。
2500年前にお釈迦様がお説き下さり、そして弁栄上人が大乗仏教を完成してくださった法の本懐は、ここにあるんです。

これが般若波羅蜜多という意味です。
般若心経は、これを説いているお経なんですよ。
タイトル見ただけで素晴らしいものだ、ということがわかります。

その智慧が開かれていくには、
自己の内なる阿弥陀様、自己の内なる仏様というものに、
まず目覚めていく、ということ。
修行によって、これに目覚めていく。

そして、どのようにして目覚めていくのか?
切心(他の人の悲しみへの共感)を通して、目覚めていくんです。

人が切心に目覚めるということは、どういうことか?
それは自分のいろんな辛い体験が、
まさしくそれは、
人に共感し、人の苦しみを癒やすためにあった。
人により良きものを与えるためにあった。
そう目覚めることが、最初の入り口なんです。

そこに目覚めることが第一だから、
最初に観自在菩薩という言葉が出て来るんです。
これは、わが内なる観音菩薩様を表現しているんです。

観音様の観は何かというと、
仏教で「観」とでてきたら、これはイメージのことです

観自在菩薩の漢字は、非常に象徴的に表現された言葉です。
観と言ったらイメージです。
観音さまが 何をイメージしてるかって言ったら、阿弥陀様をイメージしてるんです。

観音様は阿弥陀様の分身ですから、常に阿弥陀さまをイメージしている。
わが内なる観音様は、阿弥陀さまをイメージすることによって、大霊と融合する。
こういう意味なんです。

だから、木造の観音さまだと、額の所に小さな阿弥陀様が描かれています。
「観音さまは常に第三の目で阿弥陀様を念じています」という意味です。

阿弥陀様を念じる、イメージするというのは、智慧の働きによるものです。
イメージすることによって、「自」が発現する。
宇宙根本の智慧のことを自性と言います。
それが現れてくる。

そういう菩薩様が観音さまなんです。

観音様は、慈悲の象徴と言われているでしょう。
だから、聖母マリアさまみたいなイメージですよね。

私たちは、実は切心という、他の悲しみに共感する慈悲によってしか、智慧を持つことはできないんです。

一見、智慧というと、理性みたいなイメージがあるじゃないですか。
冷たいとか。

だけど冷たかったら、智慧は生まれないんです。
智慧というものが、どこから生まれるかと言うと、

この人のために、どうしたら大霊の存在が伝わるだろうか?
どうしたら大霊の心、如来さまの大愛の御心が伝わるだろうか?
どうしたら大霊に目覚めて、この人の人生が自由になるだろうか?
と、そんなことを一生懸命、切々と思って、色んな手立てを思い行動する。

そういう想いや行動の中から生まれくるのが、智慧なんですよ。
だから智慧は別名、柔軟心(にゅうなんしん)と言います。

だって、ありとあらゆる、その人にとって良きことを願うわけですから。
ありとあらゆる角度から、その人の人生にとって良いことはなにか?
そんなことを思ってるわけですから。

これを無意識に思うのです。

意識的にああだこうだっていうふうに考えるんじゃなくて。
無意識に、切心の中からそんな想いが湧いてくる。
もう無意識に、そればっかり想っているわけです。

なぜ思うのか? 
それは大霊は 阿弥陀様というのは、
一人ひとりに対してそう思って下さっているのですから。

どうしたら、その人の存在が自由になって、
無限の可能性が開けてきて、
そして、より豊かな素晴らしい人生を歩むことが出来て、
なおかつ死んだ後は、お浄土に生まれて往くことができるのだろうか?
そういうことを、常に寸分休まずに想っていらっしゃる。

実は一人ひとりの目の前に、この如来さまは在すから、
如来さまの実在が自分の心に反映していたら、
無意識に人に対しても、それを反射して、同じように思うんですね。

だから、いろんな智慧というか手立てというか、
こうしたらいい、ああしたらいいという想いが湧いてくる。
これが智慧です
だから、冷たい智慧なんていうのは、ないですよ。

しかも他の人の幸せをも、自己の責任として感じるのが菩薩様です。

経典の菩薩の定義ですけど、
「他者のことを我が荷物として背負う。
そして、人のことを、あたかも孝行な子供が親を見るように見る。」

子供の頃は、親の気持を背負ってますからね。
そういう想いでもって人を見ているのが菩薩。

だから、全然、上から目線じゃないですね。
かわいそうだから、やってやろうとか、
そういうことじゃないんです。慈悲というものは。

実はもっともっと、幼な子の心というか、
そういう気持ちで人を想って、人に接してるんです。

だからイエス様も同じことをおっしゃっている。
“幼子のようにならなければ天国に行くことは出来ない”って。

子どもの頃、親に対してそうだったように、他の人の気持に責任を感じる幼な子の心でないと、天国にはいけない。そう言われたのです。

これに対して、当時偉そうな顔をしていたパリサイ人のラビたちは、
(注:ユダヤ教の指導者。英語圏ではラバイと発音)
切心のせの字もなく、ただ“戒律を守っている俺達は偉い。
戒律を守れないサマリア人はダメだ、地獄行きだ”
そういうふうに 人を裁いていたのです。

そういう中で、イエス様は「神に近い心は、本当はこうなんだ」と説いていたんです。

ですから、一人一人の心のなかに観自在菩薩がいる。
一人ひとりの心のなかに、内なる菩薩様は在す。

内なる菩薩は必ず一人一人の心のなかにあって
その観自在菩薩が、目覚めてくると
どういう気持になっていくのか?

他の人の幸せに対して、責任を感じる。
責任を引き受けることを、「受持」と言います。

仏法僧を受持すると、自ずと内なる観音さまは目覚めていく。

仏法僧の佛というのは、大霊。
それに至る道を法といいます。

そして、大霊があってそれに至るための道があったら、
それを歩む私がいるし、
また、その道を切々と、他の人にも分ち合いたいと思って活動していれば、
(僧=修行者が)もう一人増えるかもしれない。
だから、その人に対しても受持をする。

どうにかして、大霊と人を結びつけたい。
大霊にさえ至れば、いろんなことが叶ってくるし、
大霊にさえつながれば、未来は明るいし、不安はなくなるし、
大霊とさえ共にいれば、いろんな束縛から自由になっていく。

だからこそ、道を人と分かち合いたいと思うんですね。
その責任を引き受けることが、佛法僧に対する受持ということです。

人が切心において
内なる観自在菩薩に目覚め、
佛法僧を受持した時に、大霊が現れるんです
大霊の実在を実感するんです、目の前に。

それから、内なる菩薩様が、如来様、阿弥陀様をお念じして、
大霊との融合の世界に入っていくんですね。

そういう一連の体験の流れを説いているのが、般若心経の冒頭の「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」なんです。般若波羅蜜多というのは大霊の世界につながっていくこと。すなわち、如来さまから融合を受けることなんです。
 
人が大霊の世界につながって、
ここにさえ入ったら、、、。
大霊にさえ繋がる道が見つかって、
この世界にさえ入れば、
人生のあらゆることが、
万端が自由になって、

それはもちろん、自分が生きている間だけではなくて、
未来永遠にわたって解放されて、
しかもお浄土というのは、人間の世界と違って、
喜びが無限に増えていく世界ですから。

お浄土につながることができたら、
それこそが人生の成功ですね。
生まれてきた甲斐は、やっぱり本当にあったと思う、ということですね。

 念仏で如来様につながっていくと
これさえあったら、他には何にもいらないっていうくらいの
気持ちになって来ることがありますけど、
そこからが本当のスタートで、
色々なことを発現していくことができるようになるんです。

それを具体的に精緻に説いてあるのが、大乗経典です。
大乗仏教は、非常に親切ですからね。
非常に細かく、丁寧に説いているんです。
もっとも、解読することが必要ですけど。

これ、 一般の般若心経の解説本で書いてあることとは、おそらく全然異なる話だったと思うんですけど、、、。

般若心経は、全て利他を説いているんです。
切心によって、いかに智慧に目覚めていくか。
大霊につながって、人生が開かれていくのかということ。

受持も利他ですからね。
いかに人と如来さまの大愛の世界を分かち合うか? これが受持ですからね。

どう如来さまと人をつなげていこうかって思うことは、 イコール自分が如来さまとどうつながっていこうか、って思うことなんです。

自他は表裏一体ですから、分けられないんですね
自分に対してどう思うかと、人に対してどうかは、
まさに分けられない。
どっちがが先ってことは、本当はないんです。

面白いのは、人は自分で自分を見れないことです。
自分が見るのは、全て自分以外の人です。
ということは、自分以外の人は、全てもう一つの自分の側面なんです
自我は「そんなことない。他人と自分は分れている」と、思うかもしれないけど。

でも、人にどう接しているか、
人にどうなって欲しいと思っているのか。
これは、そのままイコール、自分がどうなって欲しいか。
そういうことでもあるんですよ。

人間は、「自分」という意識を持ちますから、
どうしても人を外として最初は見ますけど、

でも、 そこからまさに切心でもって、
どうしたら自分以外の人が、大霊とつながっていくかってことを、
切々と実践していく中において、自身と大霊とのつながりは、培われていくものなんです。

人に大霊とつながってもらおうと思ったら、自分は我を出せないですよね。
人に大霊とつながってもらおうと思ったら、自分は、志を下げられないですよね。

人生を最高に活かすという、最高の人生を歩むという、
本当は、みんなそういう使命をもって、
まあ使命というか、そういうプレゼントを与えられて生まれているんです。
だからその如来さまからのプレゼントを活かさないのでは、人生あまりにも、もったいないです。

大霊から頂いたプレゼントを発現する力に目覚めるために、皆さん、こうして集まって念仏修行してるんでしょう。

もっとも、これを修行と言っていいのかはわからないけど。
だって、これが本当に人が生きる道と言えるだろうし、、、。 
だって本当は、誰しもそのために生まれてきたんですから、ね。

                                        

                        (合掌)