第二十三回 とうとう旅に出る

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第二十三回

――第十九から二十二回まで、住職の創始したタオ指圧の根幹、
気の融合が、どのような体験から生まれたのか。その一端を伺いました。

住職:はい。

――それについては、新刊『気の幸福力』に、より広範囲に書かれていらっしゃいますね。

住職:そうですね。

――ところで、住職の二十代前半の頃の話に戻りたいと思うのですが、、、。
二度と日本に戻らないという、世界放浪の旅に出る(「住職に聞く!」の第十一から十三回を参照)予定は、その後どうなったのですか?

住職:ああ、その話ですね。

――たしか計画では、修行していた道場に、若い人をたくさん連れて来ることで、自分に向けられた道場主の後継者という期待をかわす、ということでしたが、、、。

住職:はい、それはもう涙ぐましい努力を致しまして、いろんな人に道場に来てもらうようにしました。その結果、最後には、十五人ほどのメンバーが集まるようになったんですよ。

――そうですか。とうとう、、、。で、そこに至るまでには、どのぐらいの期間がかかったんですか?

住職:通算で、5年ほどかかりました。

――5年もですか、、、!

住職:僕にとっては、気の遠くなるような、長い時間でしたね。

――それは、イージーな話ではなかったですね。
それで、どうなったんですか?

住職:ある日、皆さんに伝えたんですよ。“自分は旅に出たかった。
そのために、皆を道場に来るように巻き込んだのだ。ただ、言ってみればそれは、自分のためだった。だから、本当に申し訳ないと思っている。謝る”って告白したんです。
 

――へぇー。皆さん、どんな反応をされましたか?

住職:言っていることの意味が、よくわからない、とか、別にいいんじゃないとか、そんな感じの人が多かったように思います。
でも、中には怒る人もいて、まあ人それぞれ。いろいろでしたね。

――そうですか。

住職:ただ基本的には、あまり大きな問題にはならなかったんです。
今思うと、僕が皆さんのお世話をしていたことは理解されていた、ということではないかと思います。

――それは良かったです。それで、その後はどうされました?

住職:たまたまその時、僕には、亡くなった祖母が遺してくれた、30万の貯金通帳がありました。
それで、インド行きの安い“片道切符”を買いました。

――なるほど、ちゃんとアレンジメントがなされていたんですね。
で、片道切符というのは?

住職:帰る予定がなかったから、往復切符は必要なかった。
いや、というよりもむしろ、「自分は帰らないんだ」という覚悟を、片道切符を買うことで顕したような気がします。

――なるほど、、、。

住職:インドを旅した後は、陸路でパキスタン、トルコ、イラン、ヨーロッパへと抜けるつもりでした。

――ヨーロッパについてからの予定は?

住職:香港行きの船の中で親しくなったフランス人が、“何人かのミュージシャンたちと住んでいるから、パリに来て住んだらいいよ。”と言ってくれて、手紙のやり取りをしていました。

――へぇー。

住職:それで、ヨーロッパに着いたら、しばらく彼女たちのスペースを拠点にして、皿洗いのバイトとか、指圧のバイトでもしようと思っていました。
インド以降は、何ヶ月かかけて行くつもりだったし、その頃には、航空券を買った残りのお金も使い果たしているだろうから、さらなる旅の資金を貯めるつもりだったのです。

――なるほど。

住職:こうして僕は、やっと出発できるところまでこぎつけた。
5年もかかってしまったけれど、、、。
そうしてある日、日本を発ったのです。バックパックにバイオリンを抱えて。そして、帰らないつもりであることは、誰にも言わずに。

―続く―