住職に聞く!寄り道篇(最終回)悪と菩薩の心

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


寄り道篇(8)

――前回は、おもに戦争の悪について話していただきました。
“戦争は、人類のカルマの縮図”という住職の言葉は、ほんとうにその通りだと思いました。
私は子供の頃は、なぜ人間は戦争をするのか?なぜ、そんな残酷なことを平気でするのか? と、不思議に思っていました。ですが、今は、人類のカルマ縮図ということで、納得できます。

住職:そうですか、、、。

――それにしても、悪については、話が尽きることがないですね。

住職:「悪」とは、誰しもが自分の中に抱えていて、それでいて(というか、だからこそ)、他人のこととして(他人に投影して)話さなくては、心に納まり切れないものですからね。

――この寄り道篇で、悪についてのお話しを伺っていて、私は、「悪というのものは、人間がいなかったら存在しないのではないか?」ふと、そう思いました。

住職:なるほど。そう言われてみたら、たしかにその通りですね。
食物連鎖の中で生きている動物の行為には、本能や生存という必然性だけがある。
彼らの行為には、悪として断罪できることなど、何一つないですものね。

――害虫とか、害獣なんていうのも、人間の都合に過ぎないですしね。

住職:むしろ、動物や自然にとって、人間こそが害獣なわけでして。

――人間がいるから悪がある、というか、、。こういう考え方は、仏教ではどうなんですか?

住職:仏教ではどうか?というより、もう少し視点を変えてみると面白いですよ。

――と、おっしゃると?

住職:まず動物に、善悪の認識はありません。人間だけが、他者の行為について、善とか悪とかを判断したり、また断罪したりするのです。

――はい。

住職:では、如来さまはどうでしょうか? やはり、人間の行為を善悪として断罪するのでしょうか?

――?

住職:実は、如来さまが、人間の悪を断罪するか? というと違うんです。

――そうなんですか?

住職:もちろん、「悪因苦果」ですから、他に対するいわゆる“悪の行為”は、宇宙の反応として、自らの人生や来世に苦しみをもたらします。
一方、「善因楽果」で、他者に喜びをもたらせば、人生や来世における楽をもたらします。

――なるほど。

住職:それは、人生が学びのためにあるからであり、存在そのものが、絶対の喜びである浄土の世界へ向かうための、旅のプロセスだからなんです。

――行きつ戻りつしつつも、お浄土に近づいているというわけなんですね。

住職:それに、動物と人間とでは善悪の概念が違うように、人間と如来とでは、善悪の概念というか、認識が異なるのです。

――そうなんですか?

住職:妙な例えですが、動物は、自分に危害を加えるか否かだけが、善悪の基準です。
動物にとっては、どんな悪い奴でも、自分に良くしてくれるのは良い人でしょう。
ようするに、動物の善悪の概念(と言って良いのかは、わからないけど)は狭い。

――はい。

住職:しかしこれが人間になると、たとえば、誰かに「泥棒して取ったものをあげる」と言われても、「そんな物いらない」という風になりますよね。
人間には、善悪の概念に倫理が入りますから。

――そうですね。

住職:さらに、有限の生を生きている人間と、無限性の存在である仏さまとでは、善悪の認識がまったく異なります。
浄土という永遠の時空に在(ましま)す仏さまは、善悪という相対的な認識を超えているのです。

――そうなんですか。

住職::如来さまの一切認識智という悟りを、人間に翻訳したのが、仏教の哲理です。
それによれば、「すべては因縁であり、またカルマの為せる業(わざ)」です。

――はい。

住職:また、仏教において“善”とは、浄土に向かう行為のことで、“悪”とは、人間以下の世界に向かう行為のことです。

――そうでしたね。

住職:永遠なる宇宙という観点から見れば、先ほど述べたように、すべては生まれ変わり死に変わりしながら、浄土に向かうプロセスです。
そして永遠という時間性において、善悪という相対性は消えていくのです。

――なるほど。

住職:永遠の今から生まれる仏の一切認識智は、相対分別を超えています。
仏教の「善悪不二」は、相対を超えた視点から生まれた言葉なのです。

<人の心は操ってはいけない>

――善悪をテーマにした、この寄り道篇を振り返ってみると、いくつもの印象に残った言葉があります。「人の仏性を否定するほどの悪はない」というのも、そのーつでした。
そういう意味では、悪といえば、人を間違った道に進ませるカルトや、ビジネス目的のエセ宗教ほどの悪はないのかも知れませんね。

住職:でも、宗教は恋愛と同じようなものですからね。まあ、悪い男にひっかかるようなものとも言えます。

――なるほど。

住職:だからと言って、「彼ってサイコー! アイしてるぅ、、」とか思っているものを、ハタがとやかく言うわけにもいかないでしょう。

――でも、「もっと若い内にタオサンガに出逢いたかったです。
若い内にサンガに出逢えた人は幸せだと思います」という言葉を、私は、複数の人から聞きました。カルトに騙されている若い人を見ると可哀想な気もします。

住職:まあ、たしかにねぇ、、、。

――悩んでいる時に、うまーく権威的、断定的に言われたりすると、案外コロッといってしまうのでしょうね。
人は弱いですから。

住職:僕のような、ひねくれ者と違って、たとえばオウムにいたような高学歴の人たちって、親や先生の言うことを疑わずに受験勉強して来たわけでしょう。
あるいは、疑問を持っても押し殺したとか。

――教祖に対して疑問を持っても、押し殺してしまったのでしょうか。

住職:それに類する話で、大戦後にアメリカが行った有名な心理実験があるんです。
それは、プリンストン大学の優秀な学生が対象としたものでした。
はしょって一言で説明すると、「教授のような、いわゆる権威者に、人を殺すほどの電気を“囚人に流せ”と指示された場合、学生はどう反応するか?」という実験です。

――どうだったんですか?

住職:たしか、7割だとか、かなりの高率で指示に従ったそうですよ。

――それは、驚きですね。

住職初めて会った教授の指示ですら、学生は従ったそうです。

――だったら、オウム信者らが神にも等しいほど崇めていたグルならば、その指示に従ってしまったのは、何ら驚くには当たらないですね。

住職:この実験は、「なぜあんな理性的なドイツ人が、ユダヤ人虐殺という非道なことをしたのか?」を分析するために行った実験なんです。
でも、アメリカで実験結果が出たので、ドイツまで行かなかったそうです。

――たしかに、人には権威への服従願望みたいなのがありますしね。

住職:僕みたいなタイプは、人に服従することも、また服従されることもイヤなんですけどね。

――へぇー。

住職:だって、仮に誰かが自分に服従することを望んだとしても、それに乗じて人の心をコントロールすることって、人としてのルール違反になるじゃないですか。

――なるほど。

住職:それは、人間としての倫理の問題だと思うんですよね。
まあ、そんな倫理なんて持ち出さなくたって、もし本当の友だちだったら、相手の心をあやつるなんていう失礼なことは、絶対にやらないじゃないですか??

――はい。

住職:それは、「友情」の問題で、人としての基本だと思うんですよね。
また仏教には、不妄語戒(ウソをつかない)というものがありますが、相手にウソをつくということも、広義の意味では相手をあやつることの中に入ると思うんです。

――でも中には、人と人との信頼関係や友情よりも、一時の利害の方を大切にする人が存在しますね。

住職:そうなんですよ、、、。でも、そんなことしたら、友だちなくすよね。信頼はお金では買えないのに。

――たしかに、一度失った信頼を取り戻すのには、大変な努力が要りますね。

住職:人間にとっては、信頼こそが財産です。
自分の言葉に責任持つようにしないと、信頼という、人として最も大切な財産を失うことになるんです。

――しかし、その一方で、相手のウソを信じてしまったり、騙されたりする人がいますよね。
彼らは、お人良しで、自分がウソをついたり人を騙したり、また人の心をコントロールする気持がないものだから、その点を見抜けなかったりするのでしょうね。

住職:オウムの信者たちなんて、案外そんな人が多かったと思いますね。
元信者の青山元弁護士だって、人権派の弁護士として、とても良心的に活動していたらしいし。
元心臓外科医の林郁夫さん(無期囚)の手記(『オウムと私』)なんか、涙なしには読めませんでしたよ。

――霊感商法やカルトのグルやエセ宗教の教祖なんかは、人の心を操るという関係性しか作れないタイプの人間かも知れないですね。

住職:でも、「そんなことをして、来世どうなるか?」なんて考えたら、僕なんかには、恐ろしくてとてもできませんよ。

――そうですね。

住職:臨済録(禅の著)に書いてあるんですが、「坊さんになって、徳もないのにお布施を受けたりしたら、死んだ後で閻魔さまに、借金返せと言われるぞ」と。
果たして自分は坊さんになって大丈夫だろうか? 死んでから閻魔様に“借金返せ”と言われずに済むだろうか? 、と坊さんになる前に、ずいぶん考えましたよ。

――へぇー、そうですか。

住職:天に預けている貯金通帳をこそ、マイナスでなくプラスにしておかないと、、、。
人生は本当に短いですから。

<アングリマーラ>

――ところで、確信犯的に行う犯罪者と、犯罪という行為をさせられてしまった人間とでは、どのような違いがあるのでしょうか。

住職:法律が両者を同じように扱うのはやむを得ないとしても、カルマという点では、線引きがあるように思いますね。

――オウムで例えれば、麻原は確信犯であったでしょうが、命令されて行った信者は、何らかの悪を背負ったという見方もできるかも知れないということですね。

住職:お釈迦さまの教団には、アングリマーラという人がいました。
以前、彼は、あるグルに師事していたんです。で、ある日、グルの若い奥さんが、イケメンの彼を誘惑しました。
しかし純粋な彼は、“師匠の奥様となんか、、、”と、拒んだわけです。でも奥さんは、それに怒った。で、奥さんはどうしたと思います?

――?

住職:「アングリマーラに犯された」とか何とかを、自分の夫であるグルに言ったんですよ。

――それでどうなったんですか?

住職:怒り狂ったグルは、彼に「1000人(100人だったかな?)の人間を殺して指を切れ。それをつなげてネックレスにすれば悟れるぞ」と言うんですね。

――「サリンを撒け!」みたいな話ですね。

住職:まじめな彼は、辻斬りを実行し始めます。

――はあー、、、。

住職:どんどん殺して、どんどん指を切っては取る。そして、最後の一人になったとき、向こうからお母さんがやって来るんです。
お母さんは、「辻斬り事件の犯人がお前だと言うことはわかっていた。どうか、殺すのは私を最後にして、もうこんなことはやめておくれ」というんです。

――ひぇー。

住職:躊躇した彼が、「それでも悟りのために」と意を決したとき、お釈迦さまが現れます。
神通力ですべてを見抜いていたお釈迦さまは、彼に、自分がグルにだまされていたことを悟らせます。
そして、サンガに連れて帰るのです。

――はぁー、、、。

住職:お釈迦さまは、彼を教団にかくまうんですよ。
当然、人々はサンガに対して轟々の非難を浴びせます。

――殺人犯をかくまっているんですものね。

住職:お釈迦さまは、彼をかくまう一方で、毎日托鉢に行かせるんです。
そして何をされても、決して抵抗してはいけない、とアングリマーラに言います。
彼は、托鉢に出るたびに、人々に石を投げられたりして、毎日血だらけになって帰って来たそうです。

――はぁ、、、。

職:しかし、やがて彼の修行も進み、ついには悟りを開きます。
いつしか人々の非難も納まっていたそうです。

――考えさせられる話ですね。まるでオウムの昔話版みたいですね。

住職: だから僕は、本来ならば、お釈迦さまに習って、仏教教団が元オウム信者に居場所を与えるべきだと思っているんです。
司法の発達した今、殺人に関わった人をかくまうのは無理だとしても、一般元信者が、伝統的な仏教の修行ができる、何らかの居場所を提供されても良いと思うんですよね。

<再び、ダイバダッタ>

――お釈迦さまの時代の話が出ましたので、最後に、仏教における悪人の象徴である、ダイバダッタの話をもう一度お聞きしたいのですが。

住職:ダイバダッタ事件は、教団に大きなダメージをもたらしたと思います。
でも僕は、ダイバダッタ事件が起こる、何らかの必然性があったのではないか、とも思うんです。

――と、おっしゃると?

住職:これは推測の域を出ないのですが、お釈迦さまは、ご自身の法を伝えることには、大変な熱意をもって当たられていたと思います。
しかし、サンガを教団として組織化することには、あまり熱心ではなかった、というよりも、法の師と教団経営者とでは、キャラがまったく異なると思うんです。

――なるほど。

住職:ある意味、組織化された教団とはなっていなかったからこそ、ダイバダッタが、弟子を500人も引き連れて独立するような事件が起きた、とも考えられるのです。

――はい。

住職:釈尊の教えが体系化されるのは遷化後ですが、僕は、教団が組織化されたのはダイバダッタ事件をきっかけとして、高弟や有力者たちが集まって協議した結果ではないか、と思っているんです。

――うーん、あり得る話ですね。

住職:またダイバダッタは、キリスト教におけるユダのような存在とも言えます。
キリスト教成立においては、イエスという光を輝かせるためのユダという闇の存在が必要でした。
「全ての人に裏切られ捨てられて殺され、後に神によって復活する」というキリスト物語の成就には、ユダという悪の存在は欠かせないものです。
一方のダイバダッタは、後世の弟子たちが己れの悪を投影する対象として、必要な存在なのかも知れません。

――なるほど。 

住職:話を戻すと、釈尊の教団が組織化されるためには、教団の危機が必要だったということです。
そして、その危機的状況が、ダイバダッタの離反事件だったのではないかと思うんです。
彼は優秀で人望もありました。
だからこそ500人もの弟子がついて行ったのでしょう。
もっともその人望は、人の心を操るのが上手かっただけのことだ、とは思いますが。

――それにしても、500人の弟子たちが、お釈迦さまを裏切るなんて、何とまあもったいないことをしたんだろう、と思いますが。        

住職:人間は、エゴを抑制できないと、来世や未来のことなど考えなくなります。
そして、自分の目先の都合を優先するようになるんです。

――人はそのようにして道からそれるものなのでしょうね。

住職:かくして事件は起こり、ダイバダッタは地獄に堕ちてしまった。
これがダイバダッタ物語です。

――はい。

住職:ここで見方を変えてみましょう。
すると、「ダイバダッタ事件によって教団がしっかりと組織化されたからこそ、仏法は後世にまで残った、」ということもできるのではないでしょうか。

――今現に私たちが仏法を学べているのは、その事件があったからこそ、とも言えるわけですね。

住職:はい。一体なぜ、法華経におけるお釈迦さまは、「ダイバダッタが自分の前世の師匠で、未来世には仏になる」と宣言されたのでしょうか。

――不思議ですね。

住職:もしかしたらそれは、「ダイバダッタは、人々(後世の弟子たちも含む)の悪を背負って事件を起し、さらにそのカルマをも背負って地獄に堕ちた。
ダイバダッタ事件は、教団組織化のために、宇宙に選ばれたダイバダッタの、菩薩としての行為なのだ」ということなのかも知れません。

――宇宙に選ばれて、あるいは自ら選びとって、地獄に堕ちる破壊的行為を行ったのがダイバダッタ、ということなんですね。

住職:はい。法華経のお釈迦さまは、「ダイバダッタが私の過去世の師匠であり、未来には仏になる。
これが理解できない者は悟れない」と説かれています。
それは、そういう意味に違いない、と僕は思うんですよ。

――ダイバダッタは、その行為によって地獄に堕ちた。
けれども、それは教団組織化のためには、必要な事件であった。起こるべくして起きた事件だった、ということなんですね。

住職:法華経で説いているのは、「表面に見える善悪にとらわれるな。宇宙の実相は一切の善悪を超えている。それがわかってこそ、悟りが開かれる」ということです。

――はい。

住職:おそらく法華経で説かれているのは、こういうことなのでしょう。
「ダイバダッタは、自ら悪を引き受けて実行し、そのカルマを全部自分が背負って、甘んじて地獄に堕ちた菩薩さまだった。
だから、地獄には堕ちたけれど、後世では仏になった」

――ダイバダッタに殴られて、亡くなった尼僧さんのことを考えると悔しいですが。

住職:もちろん、人間の情としては、いろいろと頭に来ますよ。
カルトのグルに対してだって、“宗教を語って人を騙しやがって”とか思って腹立ちますもんね。

――りょうきゅうさんもですか?

住職:いやー、なんせ修行足りないスからね。これは謙虚で言っているのでもなんでもなく、ですが。

――そうなんですか、ふぅーん。

住職:そういえば、たしか目連だったかな? 
外道に殺されて亡くなったんですが、「自分の過去世の業が消えるためだから、これでいいんだ」と言われたそうです。

――その尼僧さんが殺されたのも、自らの業が消えるためだったのでしょうか?

住職:あるいは彼女もまた、ダイバダッタの悪の成就を手伝うために、そのカルマを引き受けた菩薩様だったのかも知れません。
また、その両方(業の解消と菩薩的行為)なのかも知れません。

――誰にもわからないんですね。

住職:はい。誰にもわかりません。

――ダイバダッタという悪人もまた、宇宙の霊的向上のための御使いだったということなんですね。

住職:人間の内なる悪は、外に悪人を必要とするのです。
だから、ダイバダッタに限らず、いわゆる「悪人」と定義されるような人は、もしかしたら、人類のカルマを背負って餓鬼や畜生、または地獄堕ちた、または堕ちる人なのかも知れません。
何度も言いますが、人間の心は、
悪を投影する対象を必要としますから。

――この寄り道篇の最初に言われた、「悪人は悪人として顕われた如来であり、善人は善人として顕われた如来である」というのは、そのような意味だったんですね。

住職:一方、宇宙の実相は善悪を超えています。
同時にこの世は、善悪によって成り立っています。
なぜなら、どのような出来事にも善い面と悪い面がある。
しかし、何生にも亘る、とてつもなく永いスパンで考えれば、一見悪いことも、いつしか良いことに転化している。

――にも関わらず私たちは、あれは善い、あれは悪いと言って、片一方だけを見て、目先のことだけを考えては悩むのですね。

住職:一切を向上せしめる如来さまのはからいは、善悪を超えており本当に不可思議(考えてもわからない)なものです。

――宇宙の真実は、善悪の彼岸にあるのですね。
考えてもわからない、でも考えずにはいられない、、笑。

住職:そして、「他者の悪を自身の心の中に納められるほど、たましいの器を大きくしなさい。それによって、自らに内在する悪を仏性へと転換しなさい」。
これが、法華経ダイバダッタ品(章)のメッセージなのだと思います。
そして、そのたましいの大きさこそが、「菩薩の心の浄土である」、と。

寄り道篇 終わり