住職に聞く!第十五回 自我の死と、たましいの復活

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。

一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第十五回

――「一切の存在の救いを祈り、ひたすら念仏した。すると、仏さまの実在を体験し、心身に驚くような変化が生じた。
そして、“やっと魂のふる里に戻ることができた”、というような安堵の実感を得て、安らぎや喜びなどが、心身から溢れ出るようになった」と伺いました。

そのような体験は、その後の人生に大きく影響したのではないでしょうか?

住職:人生に大きく影響したのはもちろんですが、むしろ自分の存在自体
が変わったという感じです。

――月並みな表現ですが、生まれ変わったと言うことでしょうか?

住職:古い自分が死んで、仏さまの力によって、新しい自分として復活
したとでも言いましょうか、、、、。

――禅でも、大死一番と言いますね。

住職:キリスト教で言う“復活”は、このような体験を象徴的に表してい
るのではないかと、後で思いました。

――「復活」というと、十字架上で死んだイエスが、死後三日目に生き返ったという話ですか?

住職:はい。イエス様は、自分自身の人生のすべてを捧げて、神の愛と
人間の関係という物語を残した方ですからね。

――なるほど。それが聖書という形で残った、ということですか?

住職:聖書の中の福音書は、イエスの物語なんです。死後の復活が事実か
どうかは別として、十字架上の死と三日後の復活という物語。
これが何を象徴するかと言えば、それは肉体にまつわる人間のエゴの死。
そして神の力による、“たましい”のよみがえりなんです。

――では、住職のそれ以前に送っていた、まるで死に向かって行くような破滅的な生き方は、自我の死を目指していたということなんでしょうか?

住職:無意識的には、それもあったかも知れません。
でも、最も「地獄の季節」(※ランボー)だったのは、ティーンエイジャーの頃です。
だから、大人になるイニシエーションとして、死と再生の物語が必要だったということも、あるかも知れません。

※ 編集部注:アルチュール・ランボー(1854-1891)フランスの夭折した天才詩人。
17歳の時、詩集「地獄の季節」が絶賛されるも、21歳で絶筆。
その後は、なぜか武器商人となり、37歳で死亡する。
彼もまた、16歳で家出を繰り返していた。
ただし、これは単なる偶然で、話の内容と直接の関係ないとのこと。

――さて、仏教や、またキリスト教の一部でも行われている苦行などは、今言われた、自我の死と霊的な復活のために行われているのでしょうか?

住職:そうだと思います。
また念仏三昧でも長時間に亘って続けるのは、はじめは肉体的にキツいわけです。
しかし、やがて霊的な感覚が生まれて来ると、あまり苦ではなくなってくるのです。

――霊的な感覚というのは、どのようなものですか?

住職:触覚的な肉体感覚が希薄になり、逆に、喜びや安らぎ、また温か
さ等の快い感情や感覚が強くなるんです。
また、自分と世界が分離した感じでなく、本来、両者の根源に存在している、大霊の感覚が生まれるのです。
霊的な感覚と表現したのは、このためなんですが。

――そうだったんですね。

住職:喜びによって肉体的な苦痛を感じなくなるのは、何も特別なことではありません。
“うれしさのあまり、歯の痛みを忘れていた”等は、誰でも日常的に体験していることです。

――そういえば、走っていると、やがてそれが苦痛でなくなる“ランナーズ・ハイ”も、一般に知られるようになりましたね。

住職:何せ人間の脳にはエンドルフィンという、モルヒネの数千倍と
言われている脳内物質がありますからね。
何かのきっかけで出てくれば良いのです。

――では、ある程度、慣れてくれば、長時間の念仏三昧の修行も、そんなに苦ではなくなるんですね。

 

住職:例えば、和田寺サンガでは、「念仏ハイ!」と呼ばれる修行の合宿
があります。
このタイトルは、“念仏でハイになろう!”という単純なコピーに過ぎないのですが、、、。
この時は、1日12時間の音楽念仏や、立ち上がってから五体投地する礼拝行等を、休みなく行います。

――休みなしで1日12時間と聞くと、何だか、凄く大変な修行のように、思えてしまいますね。

住職:途中、トイレや水分補給、また食事は好きな時にしても良い。また、休みたければ、外で自由に休んでも良いのです。

――で、皆さんどうですか?

住職:水分補給、トイレ、おにぎりをーつか二つ頬張るなどはされます。
でも、音楽念仏に“はまって”しまうのか、実際に休む人はほとんどいないですね。

――霊的な感覚が芽生えるのでしょうか?

住職:恐らく、そうだと思います。皆さんの言うには、“果たして、
こんな行が自分にできるのだろうか?と思って来たけど、実際にやってみたら、あっ!と言う間だった。”そうです。
中には、素晴らしい神秘体験をされている方もいますね。

――このような行法は、伝統的にあったのでしょうか?

住職:はい、「別時」と言いまして、期間を定めて、1日中、念仏三昧に
浸るのです。期間は、3日や1週間とか、長いのになると48日というのも
あります。また文献をみると、1千日なんていうのもありますね。

――へぇー。

住職:別時とは、「日常の念仏だけでは、修行が進むのに時間がかかるから、“特別に”時を定めて集中的に修行する。」ことだそうです。

――なるほど。「念仏ハイ!」のネーミングは、古くから伝統的にあった修行の効果を、現代人にわかり易く伝わるように付けたものだったんですね。

住職:「念仏ハイ!」は面白いですよ。
1日の行が終わった後も、みんなバリバリに元気で、踊り念仏までやったりします。
また、その後でもミーティング始めたりして、盛り上がっちゃって、なかなか寝ないぐらい。

――中高生の修学旅行みたいな感じまであって、きっと楽しいのでしょうね。
何だか、目に浮かぶようです。

住職:「念仏ハイ!」は、皆さんが素晴らしい神秘体験をするチャンス
だから、今後も、定期的にやりたいと思っています。
それで、地方に「念仏ハイ!」ができるような、手頃な道場スペースはないかな、と思って探しているところです。

――でも、念仏を一度もしたことのない人が、突然12時間とかしても、大丈夫なものですか? やっぱり、ある程度日常的に行なっているほうが、いいのでしょうか?

住職:今回だけが人生だったわけじゃないでしょう? 
もしかしたら、過去のどこかの人生で、修行したことがあったかも知れないじゃないですか?

――なるほど。

住職:なにせ法然上人の時代には、日本の人口の半分だったかな?
とにかく膨大な数の人たちが念仏していたと、何かで読んだことがあります。

――だから盆踊りや能、また歌舞伎など日本の古典芸能の多くが、踊り念仏を起源としていると言われているぐらいなんですね。

住職:そもそも宗教を起源としない文化は存在しないのです。
例えば、「観阿弥、世阿弥」だって、阿弥陀から来ているでしょう?

――アミダくじなんかも、そうですかね。

住職:禅で世界的に有名な鈴木大拙博士が、名著「日本的霊性」(岩波文庫)で述べたように、日本人の感性の根底には、念仏が密かに息づいていると思います。

――そうだったんですね。

住職:“念仏ハイ!に参加してみたい”と思うこと自体が、自らの文化的
感性の根底に息づいている何かや、無意識に潜む、過去世の記憶に促されてのことかも知れません。

―続く―