住職に聞く! 第九回 初めての仏教との出会い

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。

一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第九回

――で、音楽演奏を通して神秘体験があって、その後、すぐに仏門へ
入られたのですか?

住職:とんでもない。そんなスムーズにはいかないですよー。
別段、
その後、何が変わったというわけでもなかったんですが、切実に精神の安らぎが欲しいと思うようになりましたね。

――へぇー。

住職:破滅的な季節が過ぎてからは、ひたすら、「安らぎは、一体どうしたら得られるのか?」と、考えてました。
人を見ては、“この
人はどれくらい安らぎを得ているんだろうか?”などと、よく思ったものです。

――それで、どうされたんですか?

住職:その後、ふとなぜか、自然の中に身を任せたら安らかになれると気づいて、自然の中に入って瞑想したり、菜食主義になったり、インド音楽を聴いたりしてました。

――すぐに仏教、というわけではなかっったんですね。

住職:はい、お寺なんてはるか遠い存在で、自分にとっては、ただの歴史的建造物に過ぎません。
そこに何か精神的なものがあるなんて、考えもしなかったです。

――それが、仏教に触れたのは?

住職:何かのきっかっけで、岩波文庫の「般若心経」の和訳を読んだんです。(文末に掲載)
これを読んだ時の驚きと言ったら、なかったですね。

――というのは?

住職:なにせ読むだけで、一瞬にして、自分が切実に求めていた「安らぎ」を感じたんです。
それで、何度も何度もその和訳を読んだりしていました。

――唱えたりもしたんですか?

住職:いやー、唱え方がわからなかったんで、それはしなかったです。

――なるほど。

住職:京都によくヒッチハイクで行ってまして、たびたび居候していた家があるんです。
で、その家に「般若心経の話」(大山澄太)という本があって、何となく読んでみたんです。
これは、初めて読んだ仏教の本でしたが、“仏教は、こんなに自分の気持ちに合うのか”と、心底驚きました。

――ようやくそこで仏教に出会われたんですね。
で、修行の方は?

住職:修行というよりも、最初は、単なるお義理で行ったんです。

――というのは?

住職:中学の同級生で、中学卒業の春休みに、途中の京都まで、一緒にヒッチハイクした友人がいたんです。
彼は京都で引き返し、僕は、鹿児島の内之浦のロケット研究所まで、一人でさらに足を延ばしたんですが。

――なぜ、九州最南端のロケット研究所まで行かれたんですか?

住職:実は中学生の頃、手製のロケットを造って、一人で実験して飛ばしていた時期があったんです。
近所の人に、危うく通報されそうになりながらですが。
まあそれで、ロケット工学に興味を持っていて、内之浦のロケット研究所は、いわば僕の、あこがれの場所のーつだったんです。

――なるほど。

住職:それで、家出中の僕が、泊まるところがない時、夜中に彼の家の屋根を登って行って、部屋の窓をコンコンと叩くんです。
彼は眠っていてもすぐに起きて、いつもイヤな顔をせずに泊めてくれていたんです。

――良い人ですねー。

住職:彼のお父さんが、弁栄上人の光明会から分派した念仏のグループのメンバーだったんです。
それで、“まあキミも、一度来てみないか?”と。

――そうですか。何があとでつながるか、人のご縁というものは、わからないもんですねぇ。

住職:後で聞いたら、“一風変わった少年だ”と、興味を持っていて、いつか連れて行こうと思っていたらしいです。
で、こっちは、一宿一飯の恩義もあるし、かつての家出少年を泊めてくれるような、奇特な人のお誘いを、無視して放っておくわけにも、いかない。

――そりゃ、そうですね。

住職:それで、前から誘われていたし、“まあ、一度は行きましょう”と、いわばお義理で行ったんです。
でも考えたら、イヤなガキですよねぇ。(笑)

――ちょっと生意気だと思われたかもしれませんね。
そうすると、そこではじめて念仏を体験されたのですね?

住職:体験って言えるようなものでは、全くないですね。
こっちは、お義理での一回だけの参加のつもりですし。

――なるほど。

住職:五体投地なんて、“何でオレがあんな仏画に向かって、頭なんか下げにゃならんのだよ”なんて感じで、ふんぞり返っているんですから。

――あれま、、。

住職:まっ、とにかく、2時間ほど座って、念仏やら般若心経を聴いていただけ。(ますます、いやなガキだな。うぅっ)*←住職の独り言です

――それがまたなぜ、変わったんですか?

住職:別に、変わるつもりもなかったんですが、ちょっと年上のヒッピーの友人がいたんです。
彼は、教会に行って、牧師と話し込んだりするような人でした。
で、その彼が、そこの念仏道場のリーダーのおばあちゃんのところに、たまに行って話をしていると言うんです。

――有名な道場だったんですか?

住職:いやー、別に有名な場所でも何でもないんですが、たまたま彼が
近所に住んでいたんです。
それで、僕が“こんなとこあるよ”って教えたら、何度か、話だけしに行ったみたいでした。

――それで?

住職:宗教家と話をするなんて、何となくちょっとカッコいい気がしたんですよ。
何だか、文化的に進んでいる感じがして。それで、“あっ、オレも”と、訪ねて行ったんです。

――ふふっ

住職:今から思うと、その頃は、向こうみずでしたね。
何でも、思ったら、即行動です。今も大して変わらないかも知れませんが。

例えば、少し後になりますが、ヒッチハイクでの旅の途中に、広島の本屋で、ある宗教者の書いた本を立ち読みしたんです。
つい最後まで読んでしまい、ぜひ、著者に会ってみたいと思いました。
それで、そのまま夜通しヒッチハイクして、広島から山口の田舎まで行ったんです。
夜中には、車なんかろくに通らないような田舎道でしたから、大変でしたけど、やっと朝の5時頃着いた。
それで8時になるまで、門の前で待って、ようやく道場のドアを叩いたこともありました。

――どんな本ですか?

住職:タイトルが「人生に行き詰まりはない」です。人生に行き詰
まっている自分としたら、ぜひ、教えて欲しいと思ったんですよ。
結局、著者には会えずに、そのまま5分後には、九州に向かいましたが。

――なるほど。
で、念仏道場のリーダーのおばあちゃんとは、その頃、どんな話をしたんですか?

住職:それが、あんまり覚えていないんですよ。
だから、特に何か深い話をしたというわけでもなさそうです。
でも、何度か行ってお茶菓子をごちそうになっている内に、ある時、帰り際に“今から念仏会あるし、参加していきませんか?”と。

――そこでは、毎週念仏会があったんですか?

住職:週に4日。一回2時間の念仏会をやっていましたね。
それで、自分も少しは瞑想みたいなこともやっていたから、とにかく2時間、座ってみたんです。
最初の時のように、反発まじりのお義理でなく、純粋な興味から。

――で、その時の感想は?

 

住職:気持ちいい! 終わった後は、風呂から出た後のように、爽快
な気分でした。
それで、おばあちゃん(と言っても、道場では“先生”と呼ばれていましたが)とのおしゃべりは卒業して、直接念仏会の方に出るようになったんです。

――なるほど、そのようにして、念仏を始められたんですか。

住職:「何かわからないけど、気持ちがいい」という、ただそれだ
けの理由で、いつの間にか行くようになったんです。

―続く―

般若心経(和訳)

全知者である覚った人に礼したてまつる。

求道者にして聖なる観音は、深遠な知慧の完成を実践していたときに、
存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。

しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

シャーリプトラよ、
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。

実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。

これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。

シャーリプトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。

生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。

眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。

眼の領域から意識の領域にいたるまで、ことごとくないのである。

(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。

こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。
知ることもなく、得るところもない。

それ故に、得るということがないから、諸の求道者の知慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。

心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。

過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、知慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。

それゆえに人は知るべきである。
知慧の完成の大いなる真言は、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、
すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実である、と。

その真言は、知慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)

ここに、知慧の完成の心が終わる。

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)より