住職に聞く! 第五回 御名(みな)を唱えるのは、仏さまとの愛ある関係性が成立するためです

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。

一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第五回

――大乗仏教と念仏の関係をお話頂きましたが、いやー、こんなつながりがあったとは驚きでした。
和田寺の道場では、念仏修行を中心に行なわれているということですが、仏を念じる、繰り返し仏の名前を唱えるのはなぜか?
また、その仏(如来)とは、そもそも何なのか・・、その辺のところを聞かせていただけますか?

住職:まず、仏を念じるというテーマからお話ししましょうか。
仏さまの姿を念じることは、釈尊を思慕することから始まった大乗仏教が、最も基本的としてきた行なんです。
例えば、仏をイメージするに至る十五段階の瞑想法を説いたお経があります。
これは、「観無量寿経」というものですが、第八段階になってからようやく、”仏を念じるように”という言葉が出てきます。

それまでは、”美しい夕日をお浄土だと想って、夕日をイメージしなさい(日想観)とか、水をイメージしなさい(水想観)”などが、準備段階としてあります。

それでいよいよ八番目になって、「仏を想いなさい。心に仏を想う時、その心が仏なんだ。
心に仏を想うことが、心に仏を作るんだよ。」、と。

さらに、「なぜなら、仏は宇宙そのものだからだ。心の中にイメージとして入るのだ。
仏の智慧は、イメージによって生まれるのだ」と続きます。

このテーマは、非常に奥深いものです。
例えば、なぜ仏を念じることが悟りをもたらすかなどを論じ出すと、時間が全くなくなります。
だから、仏を念じることを、仏典ではどう説いているか?にとどめておきます。

また、なぜ仏の名を繰り返し唱えるのか? ということですが、無量寿経という経典に説いています。
それは、”阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が、「私の名を唱えて浄土に往生しないものはいないように」と願い(本願)を立てられた。
だから、仏(阿弥陀仏)の名を唱えることには、限りない功徳がある”というものです。

キリストの祈りにも、
「天にまします我らが父よ。御名があがめられんことを」というのがありますね。
あるいは、「キリストの御名において」なんて言って、エクソシスト(悪魔払い)したりもするでしょ。
神さまの名前は大事なんです。

例えば、人同士でも名前を知らなければ人間関係が成立しませんよね。
だから、神と人との関係だって、神の名が唱えられなければ成立しないのですよ。

それにどんな風に呼ぶかでも、関係は変わります。
例えば、人間同士だって、「イヤ、奥さんなんて呼ばないで。
N子って名前で呼んで!」
なんて言うのがあるじゃないですか。というのは冗談(!)

もっともユダヤ教では、神さまの名前を唱えることはタブーで、神を表現した「ヤハウエ」という文字を見ることしかできないのです。

なんと言っても、ユダヤ教の神さまは人間に罰を与える恐ろしい存在ですからね。

「とりあえずは、罰与えられないように、言われた通りにしておこう」といった存在です。

そのユダヤ教のタブーを破って神の名を唱え、愛の神を説いたのがイエスだったのです。

イエスは、「アバ(お父さん)!」なんて、よく口にされていたようです。
妙好人という、鈴木大拙博士によって発掘された江戸時代の念仏者たちも、阿弥陀さまを「親さま」と呼んでいますしね。

だから、神や仏の御名(みな)を唱えるのは、神や仏との情的な愛のある関係性を成立させるためなんです。

さらに如来とは? というご質問ですが、、、。
言葉から言えば、如来とは真如から来た者という意味で、仏の別名です。

それで阿弥陀仏とは何か? と言えば、それは宇宙そのもののお方であって、密教では大日如来、またキリスト教では、神と呼んでいます。

阿弥陀仏と大日如来、またエホバとか、それぞれ名前が違うわけですが、それは例えば、同じ人でも子供にはお父さんと呼ばれ、会社では部長と呼ばれ、同窓会では山田太郎君と呼ばれるようなものです。

そもそも呼び方は、その人と他の人の関係性を表しているのであって、その人自身ではありません。
戸籍より芸名の方が有名な人だっているように。

そして、人が、心から南無阿弥陀仏と呼んだ時には、宇宙大霊(如来)は呼んだ人に対して、その人の悪業をも抱きしめて下さる慈悲の存在として、反応して下さるのです。

人が宇宙大霊(如来)を、エホバと呼んだ時にはキリスト教的な存在として反応します。
またアラーと呼んだ時には、イスラム教的な神として反応して下さるでことしょう。

いずれにしても、人と宇宙大霊(如来)は、名前を呼ぶことによって関係が成立します。
そして、呼ぶ名前によって、両者はそれぞれ異なった関係性で結ばれるのです。

もっともこれは逆の言い方もできます。
キリスト教的な関係性が必要な人には、如来(宇宙大霊)は、その人にキリスト教とのご縁を与えるでしょう。
また、イスラム教的な関係性が適している人には、如来はイスラム教をその人にお与えになるでしょう。

だから、私たちは「南無阿弥陀仏」と、如来さまの御名を呼んでいるようでいて、実際には、如来様に呼ばれているということです。

―続く―